広島市に暮らす佐々木日菜。彼女の周りには2人の平和主義者が居る。祖母のチヨは1945年8月6日の原爆投下を経験し、母と妹のチエを亡くした。現在は服飾系の企業の社長として、齢92ながらバリバリ働いている。そして婚約者の建はYUSHI海外活動隊の隊員として紛争地帯で援助活動を行っている。危険地帯であるボマダンでの3ヶ月の任務を終えた後、日菜と結婚式を挙げることになっている。
*戦争の説明や描写がありセンシティヴな展開となっておりますが、実在の人物とは全くの無関係です。
原爆ドームはすぐそこであったが、チヨは反対側の路地へと日菜を案内した。少し車通りが多いので気をつけて歩く。

辿り着いた先は島内科医院、かつての島病院である。原爆投下の爆心地。正確に言うと、この真上600mの位置で爆弾が炸裂したのである。当時にしては立派な病院で、空襲にも耐えうる造りとされていたが原爆の威力の前にほぼ全壊した。出張手術で中心地を離れていて無事だった院長の島薫は被爆者の治療に尽力し、3年後にはこの地に病院を再建、現在は薫の孫が3代目として内科診療を行っている。
「外人さんが多いのぉ。みんな調べて来るんじゃろうか」
「唯一の被曝国だし、核への世界的関心も強いからね」
「それは良いことだ。あの惨劇は二度と御免だからね」
元安橋を渡りきるといよいよ平和記念公園に入る。この橋は原爆の威力にも耐えているが、その上にいた人々は当然ながら即死であり、川は冷を求めて飛び込んだ人々の骸で溢れたと云う。爆弾炸裂後、あまりの熱さに水を求める者が多かったのだが、実際に水を与えてしまうと安堵で力が抜けたのかそのまま息絶える、という人も多かったと云う。聞くだけでも地獄絵図であるのだが、その記憶をありのまま展示しているのがこの後向かう平和記念資料館である。

「あれが原爆の子の像じゃのぉ。禎子ちゃん可哀想じゃった」
「白血病で亡くなったんだっけ」
佐々木禎子氏は2歳の時に被曝。爆心地からは少し距離があり奇跡的に外傷は負わずに済んだのだが、放射性物質を含む「黒い雨」を浴びたことにより11歳で白血病を発症。8ヶ月の闘病の末、12年と9ヶ月の生涯を閉じた。
闘病中、東海地方の高校生が千羽鶴を禎子氏に贈呈した。それを機に禎子氏や周りの人達も折り鶴を作るようになり、彼女の没後有志の呼びかけにより造成されたこの「原爆の子の像」にも折り鶴があしらわれた。千羽鶴も像の周りのブースに収納されていて、千羽鶴は現代においても平和祈願および病や災害と闘う人への応援(ただし時と場合を考えて贈らないと迷惑になる)として折られている。
「活発で運動ができるあがいな元気な子が、急に白血病になってしもうた。原爆さえ無けりゃあ、原爆さえ無けりゃあ……」
日本が支配権を失ったサイパンを拠点として、アメリカは日本本土に数多の空襲を仕掛けた。1945年3月には東京大空襲が発生し首都が焼け野原と化した。さらに4月には沖縄本島に米軍が上陸、2ヶ月以上に渡り凄惨な地上戦が展開された。
ここまで来るといよいよ降伏が現実味を帯びてくる。実を言えばサイパン陥落の時点で講和の提案が、後の内閣総理大臣となる岸信介からあったのだが、東條英機がこれを諫めた。さらに45年2月時点でも昭和天皇が戦争終結の提案を却下した。勝ち目の殆ど無い中、日本は特攻などで抵抗を続けていた。
そして迎えた1945年8月6日の朝。チヨは母、妹のチエと共に朝食を摂っていた。朝食と言っても仏飯くらいの量の米と3欠片の芋に味噌汁、という質素なもので、とてもエナジィの湧くような献立ではなかったのだが、文句を言えば没収されるので黙って食べる。チヨはこの日宇品にて作業があったため早く家を出た。
8時15分。突如として閃光が走り爆風に晒された。そして市の中心街に巨大なキノコ雲が立ち昇っていた。空襲にしては異様な光景である。これは大事に違いない。しかし宇品からでは全容が見えていなかった。

日菜とチヨは資料館に到着した。早速3階に上がると、まずは被災前の広島の写真から展示が始まる。ここもやはり外国人が多い。異国語のガイド率いる団体があちらこちらにいて展示を眺めている。

基調が白色から黒色に変わる。原爆を食らい廃墟と化した広島の写真が壁一面に描かれていた。

産業奨励館(原爆ドーム)や一部の建物を残して瓦礫の山となった中に写る2人組。片方が泣きながら、もう片方を抱きしめているようである。


当時の広島上空を模した円形のジオラマでは、原子爆弾が降下し街を焼き尽くす様がアニメーションで再現されている。

爆心地、ドーム、広島駅、今いる資料館の4地点が表示されると、チヨは群衆を掻き分け、指をさして家のあった位置を示した。
「爆心地から1kmあるかないかくらいじゃのぉ。ここじゃあもう助からんよ」
原爆の威力は今までの空襲の比でなく、屋外では熱線と放射線、屋内では凄まじい爆風による家屋倒壊で絶命する人が多かった。爆心地から1kmとなると、即死とまではいかないものの強烈な火傷を負い、水を求めて彷徨い歩くうちに息絶える者が多かったらしい。
その時チヨも作業を早めに切り上げて家へと戻った。少し距離があったが歩いて戻る他無かった。その道中、目玉の飛び出した男性、着物の模様が版画のように火傷跡として写った女性、爛れた皮膚をぶら下げながら水を求める人、誰ともわからぬくらいに黒く焦げたなにか等とすれ違い、まるで地獄絵図の中に入り込んだような感覚であった。同時に襲ってきたのは、母も妹も生きていないだろうという絶望であった。
近所の商店も友達の家も皆燃え盛っている。瞬間で数千度まで達した市街地において、木造家屋は自然と発火してしまうのである。絶望は確信へと変わっていた。燃え盛る自宅の前で、チエがお母ちゃんお母ちゃんと泣き叫んでいた。母は家屋の下敷きになって身動きが取れなくなっていた。危険を察知した母に外へ押し出されたチエだったが、出たら出たで熱線を浴びてしまい大火傷を負っていた。チヨはチエを抱えて救護所へと急ぐが、痛い痛い言って運ぶのも一苦労であった。

2階の展示は、屋外にて建物疎開(延焼を防ぐため一部の建物を壊し間引きすること)の作業にあたっていた犠牲者の衣服から始まる。その先には、目を覆いたくなるような負傷者達の写真が多数並べられている。外国人でごった返す隙間を縫いながら、チエが負ったのと同じような傷の写真を指し示すチヨ。白黒写真でも容易に赤黒く爛れる傷の画が想像できてしまう生々しさに、開いた口が塞がらない日菜。写真の人物はその後24時間以内に亡くなったと云う。
チエを救護所へ運んだチヨ。そこには夥しい数の重傷者と遺体があった。チエも収容はされたが、限られた医療資材と人手では満足いく治療が困難だった。チエはしきりに水を求めたが、ここに来るまで「水をあげたらぽっくり行ってしまう」と言う声を何度も聞いていたからあげることができなかった。次第に全身の腫れが大きくなり、息が弱くなっていくチエ。死にゆく様子を、ただ横で見ることしかできなかった。またすき焼きを食べたい、クマの親子と再会したい、南の島へ行きたい。2人で語り合った願いは遂に叶うことがなかった。
そして家に戻れば母の亡骸があった。母だと判るくらいに肉が残っていて、それが却って独りぼっちになった現実を痛感させた。泣くことさえできないまま、暫く家のあった場所に立ち尽くしていたと云う。
展示はその後もケロイド(傷跡が回復する際に修復力が働きすぎて皮膚が大きく隆起してしまったもの)や放射線症の話へと続いていく。放射線をもろに浴びた者は高熱や消化器障害などの症状に苦しみ1ヶ月以内に続々と亡くなった。致死量浴びていなくても脱毛が生じたり、禎子氏のように後年になって白血病や癌を発症するケースが多かった。原爆とは一瞬にして人や街を焼き尽くすだけでなく、生き延びた人々の生命さえ脅かす恐ろしいものである。

ここまでおどろおどろしい展示が続いたが、最後は希望で締め括られる。原爆で息子を失った母親が、翌年新たな命を授かったという展示。災いの直後にもきっと、地獄絵図の中で産声を上げた赤ん坊はいたのだろう。そして彼ら彼女らに、広島再生の希望が託されたのだろう。なんてことを考えながら日菜はフロアを後にした。
「おばあちゃん大丈夫なの?トラウマとかなかった?」
「なんべんも来とるけぇのぉ、ちったあ慣れたものよ。でも無いといやあ嘘になる。未だに胸を締め付けられるものじゃ」
「そうなんだ。私やっぱり怖かった、火傷の写真とか……」
「気持ちは解る。でもうちにゃあ責務がある。年月が経って被曝経験者は減ってしもうた。数少ない生き残りの一人として、うちゃ記憶を後世に繋いでいかにゃあならん。じゃけぇなんべんも現実を確認する。辛うても、向き合い続けるしかないんじゃよ」

ギャラリーに入ると、各々が思ったことを書き込める対話ノートが置いてあった。意味は解らないが様々な言語で恐らく平和への想いが認められているのだろう。しかし2人はとある日本語に言葉を失う。
日本は核兵器を持つべきです。
あれだけ痛ましい被害の画を観ておきながら核兵器を容認する発言が何故できるのか、チヨは疑問でならなかった。確かに今、時の首相が核を持つべきと発言したり、とある政党が核は安上がりだと主張したりして、特にネット上でそれを礼賛する者も多い。核を認めるような意見は、昔も少しくらいはあったのかもしれないが、戦争を知らない世代も上に立つようになった現代ではあって当然となっている。チヨはそれを悍ましく思っていた。
そして日菜は、建とした唯一の大喧嘩のことを思い出した。日菜はチヨの血筋を引いているからか反戦の意思が明確である。一方の建はというと、実は大っぴらに反戦を認めてはいない。理由としては、昨今の世界情勢を鑑みると日本にも武力行使が降りかかってくる可能性があるのに、それに抗う力を持ってはいけないとなるとなされるがままにされる。戦争放棄を定めた日本国憲法9条には自衛隊の在り方を追記して戦力をある程度認めるべきだし、攻撃への抑止力としての核兵器保持も当たり前に否定すべきではないと云う。日菜はそれが許せなかった。
「戦争がどれだけ悲惨だったか、わからないの?」
「わかってるよ。わかってるからこそ、抵抗権が必要なんだ!『汝平和を欲さば、戦への備えをせよ』という言葉がある。平和のためには戦う必要もあるんだよ」
「それが却ってむごい戦争に繋がるの!戦う姿勢を見せなければ、相手だって攻めてこないはずよ!」
「……ならばせめて、核を持つことの是非くらい考えてくれよ。何も考えずに持つな、なんて言うのは認められない」
建がそう言うものだから、核の歴史についても学んでおきたい、と日菜はチヨに申し出た。チヨは精悍な顔つきで首を横に振る。
「核なんて何があっても許されん。ヒットラーと同じよ、微塵も受け入れられるものじゃない」
「私もそう思うよ。でも建さんが納得しないんだ」
「別れりゃあええじゃない。うちの見る目が腐っとったわ。あの人の平和主義は偽物よ」
「おばあちゃん、それは言い過ぎ!あそこで座って待ってて、納得する答え持って帰ってくるから」
チヨを休憩スペースに座らせ、日菜は次の展示を熱心に眺めた。原爆開発や広島と長崎が原爆の投下場所に選ばれた経緯、原爆の威力についての科学的な説明を読んだ後、戦後の核拡散について学ぶ。
時代は冷戦へと突入し、米ソの核開発競争は激化した。原爆とは比べ物にならないくらい強力な水爆まで開発され、第五福竜丸の乗組員が被曝した。米ソ以外にも英仏中(イスラエルも保有していると広く考えられている)、冷戦終結後は印パ北朝鮮が相次いで核を手に入れた。その他にも所有の疑いがかけられている国がある。
日菜はインターネットを使ってさらに深掘りした。ノーベル平和賞を受賞した日本出身の人物、というと佐藤榮作のみが挙げられるが、授賞式でスピーチをしたという点では、2017年に受賞したICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)の一員として、サーロー(中村)節子氏も押さえておきたい。広島で被曝し、その後アメリカに留学。結婚後はカナダのトロントに在住しながら、世界中で原爆反対の呼びかけを行ってきた。2017年の国連総会においてもスピーチを行い、その後核兵器禁止条約の採択が決定した。しかしその決議に核保有国は参加せず、さらに唯一の被曝国である日本の代表も出席していなかった。今や同盟国となったアメリカの「核の傘」に護ってもらっている以上、核保有禁止の意を示すことは矛盾に繋がるからである。世論は核廃絶の声が根強いが、周辺国に攻撃されかねない現状を鑑みると、政府としては核軍縮は呼びかけつつも、核の傘を頼るしかないのが実情である。
以上の事情を知ってしまうと、日菜としても核廃絶を声高に主張しづらい。チヨには申し訳ないが、核の必要性も説くべきなのか。でもやはりそれは許されない。納得のいく答えはもう少し整理してから出すことを告げると、チヨはすっくと立ち上がり慰霊碑と日菜を連れていった。

原爆死没者慰霊碑。毎年8月6日、民間人や各国首脳陣が集い祈りを捧げる場所である。
「アメリカさんも一言謝ってくれりゃあのう、ちったあ許しちゃれるのに」
しばしばメディアが取り立てる、原爆投下に対するアメリカ側の謝罪の有無。政府や大統領はこれまで謝罪はしていない。その背景として、アメリカ国民の中で長らくの間「原爆が戦争終結を早めた」という考えが根強い。戦争に勝った側も大きなダメージを負うのは必然であり、決定的な一撃を加え戦争を終わらせることが自国を護る上の正義とされた。時のトルーマン大統領もその考えを公の場で明言し、後年になって被曝者団体を前にしても揺るがさなかった。
「でもね、若い世代だと原爆投下を悪と思っている人も多いんだよ」
戦争を知らない世代の中にはフラットな視点で原爆被害を捉える者も多いようである。あの凄惨な光景、大量の死者数、佐々木禎子氏に代表される被曝後の健康被害の存在を目の当たりにすれば、原爆を正義とするのは気が引ける。そもそも原爆投下が日本の降伏を決定づけた、という前提にも歴史学上の議論があり、その前に日本が降伏を決めていたとしたら、原爆投下はただのダメ押し、殺戮ということになる。
「謝罪は無くとも、犠牲者への哀悼の意は示している。原爆被害の悲惨さは誰もが認めるところなんだよ。だから安心してほしいな」
「まあそうね。でもいつかは非を認めてほしい」

正面から見れば、隙間の奥に原爆ドームが入る。そこにある碑には「安らかに眠ってください 過ちは 繰返しませぬから」という言葉が刻まれていて、これもまた、誰が過ちを犯したのかが不明瞭、主語を「日本国民」と捉えたら犠牲者への冒涜になる、等批判にさらされるものであるが、国内外の全人類が戦争を回避するように努める、という宣言だと解釈すれば良いのではないか。
「原爆を落としたアメリカも、無茶な戦争を始めた日本も悪い。そもそも戦争自体がつまらんのじゃ」
「そうだよね。戦争をしない、と宣言すること自体ある程度抑止力みたいなものになっていると思う」
「みんなガタガタせせろーしい。戦争なんてつまらんに決まっとる。辛い思いするなぁ国民なんじゃ」

原爆ドームに戻ってきた。漸く自分の考えがまとまった日菜はチヨにそれを共有する。

やっぱり核兵器は要らない。あの原爆でも人が人でなくなるくらい悲惨なことになったのに、より威力の高い今の核兵器が使われたらもっと滅茶苦茶なことになる。そんなのが平気で利用されるようになれば人類が滅亡しちゃう。そもそも葛藤なく核のボタンを押せる人はいないんじゃないかな。エノラ・ゲイのパイロットだってトルーマンだって、原爆による犠牲を顧みなかった訳じゃない。
それに多くの外国人が資料館を訪れているのを見て、世界中の人々が核やヒロシマの惨状に関心を持っていることを知った。もしかしたら日本に核廃絶の期待を抱いているのかもしれない。それを裏切ってがっかりさせてまで核を持つ理由は無いし、日本が主導して核廃絶を推進するべきではないか。
戦争もしたくない。確かに攻め込まれる不安はあるけど、やり返すと泥沼化する傾向にあるのは昨今の紛争をみればわかる。何の罪もない民間人が居場所を奪われ生命を絶たれる悲劇を、なぜ繰り返さなければならない?
日菜の熱弁に、チヨは大きく頷いてこの日初めての笑顔を見せた。
チヨと別れた日菜は整理した考えを早速建にLINEで共有した。タヌボ村へ帰る建が丁度電波の入る街を経由するタイミングだから読んでくれるかもしれない、と思っていたが既読はつかない。実はこの時、建の車は武装勢力に襲われていた。