広島市に暮らす佐々木日菜。彼女の周りには2人の平和主義者が居る。祖母のチヨは1945年8月6日の原爆投下を経験し、母と妹のチエを亡くした。現在は服飾系の企業の社長として、齢92ながらバリバリ働いている。そして婚約者の建はYUSHI海外活動隊の隊員として紛争地帯で援助活動を行っている。危険地帯であるボマダンでの3ヶ月の任務を終えた後、日菜と結婚式を挙げることになっている。
*戦争の説明や描写がありセンシティヴな展開となっておりますが、実際の店舗とは全くの無関係です。
2026年8月6日の朝が来た。チヨは毎年この日になると、平和記念公園には足を踏み入れない。どうも人の多い場所で慰霊をする気にはなれず、広島市内を出て過ごすのが恒例となっている。今年は西条の酒蔵巡りを計画していて、日菜もそれに付き合うことになった。
ゆっくり茶を飲みながら朝食を摂って、広島駅には11時くらいに集合した。西条までは40分弱の乗車である。
「建さんは元気にやっとるんかね」
「わからない。ポノ村は電波無いから」
「そうじゃったそうじゃった。治安悪いいうけぇ心配よね」
チヨの心配は的中していた。コーヒー果実を摘み取り乾燥を始めて3日くらい経った頃、隣の村で武装勢力ダンバイによる襲撃があった。ポノにも来る可能性があったため、ベドゥラから来たのとは反対方向に避難した。1週間後、安全を確認してポノに戻ってきたが、乾燥させていたコーヒーチェリーが踏み荒らされていた。恐らくダンバイが来て襲撃を企てていたものと思われる。
安全確認したとはいえ、武装組織らが森に潜んでいる可能性は高い。建らとしては撤収・退避が望ましいところであるが、このような事案を何度も経験してきた村人が見張りをしてくれることになり、支援プロジェクトの継続が決まった。果実はまだ8割ほど残っていたので、そのうち1/4くらいを摘んで改めて乾燥の工程をやり直す。

そんなこととはつゆ知らない日菜とチヨ。西条駅に到着すると真っ先に酒蔵に向かう。

古くから日本酒の銘醸地として知られる西条の大きな特徴は、駅周辺の狭いエリアに7軒もの酒蔵が集まっている点である。特に駅を出てローソンの角を左に曲がった酒蔵通りとそれに平行する前後1本の道沿いには6軒が集中していて、各酒蔵が高さを競うように建てた煉瓦造りの煙突がランドマークとなっている。

最初に訪れたのは亀齢。ここで期間限定(註:現在は販売終了)のお得なチケット「ほろ酔い散歩クーポン」を購入した。11枚綴りで日本酒の試飲やミニボトル、菓子などと引き換えられる。一行は試飲をメインに巡る計画でいたが、亀齢ではチケットとは別立てで無料の一口試飲を提供している。3種類試したところ、純米酒が力強いアタックから旨味が押し出される格好で特に印象に残る。古典的な味わいだが確と米の旨味があるから美味い。
「十四代も新政もええけど、昔ながらの西条の酒は最高じゃのう」
「この前の日本酒とは全然違った印象だね。何が差を生んでいるのかな」

その手がかりを探すため、亀齢から少し駅側に酒蔵通りを戻って白牡丹を訪ねた。1675年創業と、西条では最も歴史のある酒蔵。カウンターでチケットと引き換えに2種類の酒を戴く。奥にクーラーの効いた部屋があって、酒を啜りながら酒造りの紹介動画を眺める。
軟水でならした広島県にありながら、西条に湧く水は寧ろ硬めであると云う。中硬水といって、龍王山の地下を10年以上かけて流れ、土壌の中のミネラルが染み出した伏流水が井戸水となって湧いたものである。このミネラルが酵母の良い香りを引き出す役割を持つ。
麹作りや蒸しは白牡丹が独自に開発した機械を使って行う。古くからのやり方を徹底的に研究し、最適な条件を見つけて機械に反映させている。機械化によりブレをなくしつつ、職人の手が必要な部分は手作業に任せる。このバランスを上手く取って作られる白牡丹の酒は、辛口の亀齢とは違いすっきりとした甘みと米の旨味がある「旨口」と形容される。

まずは純米吟醸 生貯蔵酒。かっちりとした土台の裏から吟醸香のやさしさが現れ表裏一体の関係性。
続いて純米大吟醸 いちの雫。綺麗な水の奥から果実のような吟醸香が顔を出す。
「これはすき焼きによく合うだろうね」何か思い出したかのように日菜がコメントした。
「そうじゃな。西条の酒は女酒言うて甘口のものが多い。甘いすき焼きにゃあ最適じゃ。父さんと飲みたかったのう。母さんとも、チエとも飲みたかったのう……」
戦争が打ち砕いた夢を憂うチヨ。心のどこかで今日が8月6日であることを忘れようとしていたが、広島市内から逃避したところでそれは無理な話であった。日菜も余計なことをしてしまったと思いなかなか口を開けない。
昼食は佛蘭西屋を予約していた(註:筆者は訪れていないため詳しいリポは無し。また、木曜日は定休日)。賀茂鶴で具材を煮込み塩胡椒で味付けした美酒鍋が名物であり、すき焼きとは違うが似たようなものを家族(孫)と一緒に食べることで少しはチヨの気持ちも晴れた。
そんなチヨだが、住み込み始めたての頃は慣れない作業に四苦八苦していた。編み物が好きなだけではとても務まらない仕事であり、店主からは来る日も来る日も罵声を伴う指導を受けた。この時の嫌な気持ちは一生忘れることは無いと、100人以上の従業員を束ねる立場になった今でもチヨは決してきつく叱ることはしないと云う。
他に生きていく道が無いことをバネにして働いた結果、気付けば3年で服の仕立てが一人前にできるようになって住み込みを卒業した。チヨの服は洋裁店の伝統を守りつつも新しい要素を取り入れ客からは好評であった。あれだけ厳しかった師匠たる店主もチヨに全幅の信頼を寄せる。二番手としてせっせと働くこと25年。遂にその日がやってきた。
「チヨ君、今日は牛鍋を食べに行こう」
「牛鍋ですか?久しぶりに食べます」
高度経済成長を遂げた1970年代ともなれば、焦土となった広島市もかなり復興が進んでいた。ビルの前を行き交うマツダの車の数々。まもなく新幹線が通って、東京まで半日かかっていた道のりが5時間くらいで行けるようになるらしい。
コンクリートの建物群の中に木造で再建した牛鍋屋があった。個室に案内されると早速師匠は賀茂金秀の吟醸酒を四合瓶で注文した。牛鍋は特上の肉で仕立ててもらう。
肉を口にした瞬間、チヨの中で漸く一区切りがついた。戦争が終わった暁に果たそうと思っていた夢がひとつ、完全体ではないが叶ったからである。30年ぶりに食べる大きな牛肉は、この世にこんな美味いものがあるのかと驚くほどのものであった。遠慮せず食え、と師匠が言うのでチヨはそれに従い、4枚あったうちの3枚も食べてしまった。
「わしも体にガタが来たわい。もう少ししたら身を引こうかのぅ」
「そがいな……まだまだ師匠に教わりたいことえっとあるんじゃ!」
「チヨ君は十分1人でやっていける。この店を継いでもらえると助かるのぅ」
「うちが……か?」
「そうじゃ。店大きゅうしてもええ。弟子取ってもええ。好きにしんさい」
こうしてチヨに2代目が任された。従業員を多く雇い、自身は社長として忙しい日々を送る。仕立てから既製服が主流の時代へと変わることを予想し、既製服中心の販売に舵を切ったがリクエストがあればチヨまたは弟子自身で服を仕立てる。これがなかなかの好評で、日本国内のみならず世界中からオーダーが舞い込む。それでもチヨは広島市内の2軒と尾道市内、福山市内1軒、計4軒以外に店舗を構えなかった。自分の管理が行き届く範囲内で収めたい、という意図であった。これが結果としてブランドの価値を高めることになった。

腹を満たしたところで、次に訪れた酒蔵は福美人。ここは空調が無くとても暑いのだが、井戸水の湧き出し口が開放されていて、触れてみると掌が冷んやりしていて心地良い。

ここでは純米吟醸の原酒の試飲に加えお土産のかりんとうも提供される。西条の各酒蔵から集めた酒粕を纏わせたシリーズであり、他の酒蔵のものも購入して利きかりんとうができる。酒粕の味が確とあって程良い甘みがクセになる。

そして純米吟醸は、これぞ吟醸酒と言えるような高貴な甘み。クラシックな印象のある西条酒において、現代の吟醸酒ブームの中でも愛される銘柄であろう。カウンター付近のテーブルでは欧米人が酒盛りしており、これはつまり普段日本酒に慣れていない人でも美味しく飲めるということではないか、と日菜は考える。

感動した2人はチケットとは別に大吟醸雫酒の試飲(500円)も注文した。これまた凛とした煌めきのある吟醸酒。日菜は福美人の大吟醸を、結婚して初めて建と飲む酒に決めた。お供は勿論すき焼きである。できれば高森牛で拵えよう。
しかし建はもっと大変な災難に巻き込まれていた。コーヒーチェリーの乾燥がだいぶ進んだある日の真夜中、ダンバイと対立する武装組織マチョロが建らのベースキャンプを急襲した。幸い襲撃前にキャンプから逃避することはできたが、逃げる途中で隊員の1人が転倒し手首の骨を折ってしまった。日本であれば入院治療が必要な怪我であったが、ここはボマダンの貧しい村であり診療所すら無い。医療チームが応急処置を施すが、病院への搬送は必要であった。ベドゥラに戻ってバラス経由でエチオピアかヨーロッパに運ぶしかない。ただ武装組織がベドゥラやバラスまでの道を見張っている可能性が高く、無闇に動けない。
さらに衝撃の事実が判明する。建らに先に逃げるよう言い、自身はマチョロに立ち向かった見張りの村人が息絶えたとの報せ。彼は村のムードメーカーで、コーヒー豆加工の仕事にも熱意を持って取り組んでいた。情勢が落ち着いたら日本に来てコーヒーの勉強をしたい、とまで言っていた青年が紛争の犠牲になった。その事実に建は言葉を失う。
ポノ村はダンバイとマチョロによる交戦の舞台と化した。建物は焼かれ、ここまで乾かしてきたコーヒーチェリーも火に呑まれた。金になる資源を生み出そうという努力は灰に消えた。
そして負傷隊員の搬送作戦だが、このまま留まるのも危険と判断しベドゥラに向かうこととした。射撃を受けても大丈夫なように車を防護したが、止められて誘拐されるリスクは抑えきれない。道も大雨により泥濘んでいてなかなか進めない。来る時は5時間で済んだ道のりなのに、10時間経ってもまだベドゥラに着けない。スタックして進めなくなった車を建らが必死に押している時のことであった。銃弾が背中を掠めたのである。
「危ない!早く車の中へ!」
間一髪で被弾は避けられたが、車はダンバイでもマチョロでもない武装勢力に取り囲まれた。スタックも解除できておらず身動きが取れない。
緊張状態が続くこと1時間。突如として銃声がけたたましく響く。遂に射殺されるのか、と絶望感を抱いていたところ、銃声の主は政府軍であった。武装勢力を狙撃して後退させ、泥濘からの脱出を手伝いに来てくれたのである。そのまま政府軍の護衛を受けながらベドゥラに到着。そしてチャーター機で隊員はバラスに運ばれた。
政府軍からはポノ村での活動を中止するよう言われた。流石にこういう状況下で活動するのは危険すぎると、建は素直にそれを受け入れる。同行していたポノ村の首長には伝えきれなかったコーヒー作り等のノウハウを思う存分伝え、情勢が落ち着いた後再会する約束を交わした。

最後に訪れた酒蔵は賀茂鶴。今までの酒蔵と違い入口に扉があり、ビジターの入れるスペースも最も広く綺麗なインテリアである。恐らくであるが西条で最も名高い酒蔵であり、時のオバマ大統領もすきやばし次郎にてここの酒を飲んだらしい。

そんな酒蔵での引き換え対象酒は2種類。まずは蔵元限定の超辛口広島錦から。福美人の後ということもあり確かにドライな口当たり。それでも旨みがきちんと出てきて味わい深い。もう一つは大吟醸の双鶴。こちらも辛口寄りで、ふわっとフルーティな感覚である。
「あ、建さんから連絡きてた。今ベドゥラに戻っている、明日にはバラスに戻って1泊して飛行機に乗るみたい」
「そりゃあえかった。楽しみじゃのぉ、建さんとの新しい暮らし」
「じゃね」
いい感じに酔いが回ったため、カフェで一服した後西条を後にする。カープの試合があるため広島行きの電車は混雑していた。その他にも着物を着て茶会か何かに出かける女性、付箋だらけの英単語帳を読み込む高校生、ラクロスのクロスを壁に立てかける学生、長い爪をカチカチ打ち付けながらLINEでやり取りするギャルなど多様な人々が時間を持て余していた。

凭れ掛かって寝ていた日菜へ、暇潰しにと古びた手帳を渡したチヨ。それは戦時中チエが毎日書いていたと云う日記であった。原爆投下により崩れた家から外に出る際抱えていたものであり、チヨは後生大事に保管していた。1945年3月1日の節では溜まっていた本音が爆発していた。
私の願ひは、世界中が平和でありますやうに。お金持ちになれなくても良い。かわいいワンピース着られなくても良い。お肉食べられなくても良い。広いお家に住めなくても良い。遠いところに遊びに行けなくても良い。ただお父さんお母さんお姉ちゃんとご飯を食べて笑い合う毎日を送りたい。それだけなのにどうして叶はないのだらう。
今、日本はどれくらゐ勝つてゐるのだらう。大本営は勝つてゐると云ふけれどほんたうなのかな。兵隊さんはお國の爲に戰つてゐると云ふが、お國の爲とは何だらう。考へてもよくわからない。兵隊さんにもお父さんお母さん、奥さん子供がゐる。帰つてきてほしいと思つてゐるはずだ。私だって家族を失つたら嫌だ。考へただけで泣きたくなる。
亜米利加さん大英帝国さんの兵隊さんも、家族がゐるのだろうか。帰りを待つてゐるのだろうか。戦争が無ければ、こんな思ひしなくていいのに。
戦争なんて嫌だ。戦争なんて嫌だ。戦争なんて嫌だ。心の中でつぶやきながらけふも私は寝る。
日菜の目にじわりと涙が滲む。人間誰しも心の奥では平和を願っているはずなのに、どうして戦争をしてしまうのか。権力者が勝手に始め、振り回されるのはいつも国民である。命を脅かされ、生き存えても大切な人を失う悲しみに苦しめられる。こんな思いはしたくない。これからの世代にもさせたくない。
「おばあちゃん、見せてくれてありがとう」
「こちらこそ、読んでくれんさってありがとの」
平和への想いを確かにして、81年目の8月6日は過ぎていった。
バラスに戻った建は最後の観光を楽しんでいた。朝からコーヒーとドーナツの美味しいカフェを訪れ、国立博物館でボマダンの歴史を改めて学び、昼は高級ホテルのレストランで優雅にワインとステーキ。土産になりそうな民芸品を見繕い、夜はまた良さげな居酒屋でビールと揚げバナナ、羊肉のトマト煮込みを楽しんだ。タヌボ村ミッションもポノ村ミッションも完遂できなかったのは心残りだが、愛しの日菜が広島で待っていることを思うと心が躍るものである。
翌日、出発2時間前にバラス国際空港に到着。荷物検査を受ける。何せ長期滞在のため荷物が多く、検査員は少し面倒臭そうな表情をしながら中身を確認していく。その時、轟音と共に辺り一面がピカンと光った。
自爆テロであった。建の2つ後ろに並んでいた男のベルトに仕込まれていた爆弾が爆発したのである。ベラック教保守派組織「ベラメイ」による犯行であった。
終業後同僚と飲みに行った帰り道、日菜は自爆テロの件をニュースアプリの通知で知ることとなった。
アフリカ・ボマダンの首都バラスにある国際空港で自爆テロ発生 日本人8名を含む48名が死亡 ベラメイが犯行声明を発表
建はこの日に出国予定であることを日菜に伝えていた。それでなくても、ボマダンという退避勧告の発令された国に行く日本人は限られている。建が巻き込まれた可能性は高かった。死者の名前に建の名前が無いことを祈って記事を開く。
「おおしま・けん……」
建は自爆テロの犠牲者となっていた。即死だった。活動に同行した隊員7人と共に玉砕である。

日菜は暫く事実を飲み込めず立ち尽くした。漸く歩き出して平和記念公園までやってくると、ライトアップされた慰霊碑の前で、人目も憚らずわんわんと慟哭した。