連続百名店小説『世界中が平和でありますように。』 第三篇:戰爭とは後戾りできぬ道(ふみちゃん 流川店/銀山町(広島))

広島市に暮らす佐々木日菜。彼女の周りには2人の平和主義者が居る。祖母のチヨは1945年8月6日の原爆投下を経験し、母と妹のチエを亡くした。現在は服飾系の企業の社長として、齢92ながらバリバリ働いている。そして婚約者の建はYUSHI海外活動隊の隊員として紛争地帯で援助活動を行っている。危険地帯であるボマダンでの3ヶ月の任務を終えた後、日菜と結婚式を挙げることになっている。
*戦争の説明や描写がありセンシティヴな展開となっておりますが、実際の店舗とは全くの無関係です。

  

 翌朝、あまり眠れていない建は愈愈紛争地帯へと向かう。ボマダン北部の砂漠地帯、国境近くの小さな村タヌボ。電気水道ガスなどは勿論無く、食糧や安全な飲み水へのアクセスすら困難である。持っていけるだけの物資を詰め込み、後は2週間後の補給車をあてにして、キャンプに寝泊まりしながら活動を行う。
 この地域で起こっている紛争について解説すると、元々ボマダンはポンピン教の国であるのだが、北部では周辺国の影響もあってベラック教徒も多い。その中でも特に厳格なルール遵守を強要する勢力が「ベラメイ」という組織を結成していて、独立を求め激しい戦闘を繰り広げている。ここタヌボ村はポンピン教のテリトリーであり、かつてベラメイの襲撃を受け村民の8割が虐殺された過去がある。その後多数の子供が誕生し村は再生したが、再襲撃のリスクは依然として残る。そもそも農業のできる土地は限られており、住民は稼ぎが少なく貧困に喘いでいる。北部ボマダン政府軍とベラメイの衝突が常態化しているため物資を届ける有志もおらず、見かねた建とその仲間が援助に名乗りをあげた。
 タヌボでの任務は井戸の改修と灌漑設備の造成である。安全な飲み水を手にすることで感染症を防ぎ、オアシスの水を農地に引いて農作物が安定して育つようにする。さらに農業や大工といった職業の訓練を施したり、子供達には教材を提供するなどして教育の機会を与える。建らが支援活動をできるのは1ヶ月と少しのみ。情勢によっては近隣の都市や首都バラスへの避難を余儀なくされる可能性もあり、限られた時間の中では与える支援より自立するための支援の方が効率的かつ人道的な手段なのである。
 しかし通信環境が脆弱なため外部との連絡は都市に出ないと取れない。建からの連絡が待ち遠しくてもどかしい広島の日菜。村には無事到着したか、腹を空かせていないか、暑さにやられていないか。心配するとキリが無いのだが、今できることは建が任務を果たして帰ってくることを信じるのみである。

  

 ある日曜の夕方、日菜は広島港に居た。チヨが松山出張から帰ってくるのを迎えに来ていた。港の屋上から瀬戸内海を眺めて待つ。

 近くに見える島は似島(にのしま)といって、軍国時代には検疫所が置かれていた。捕虜収容所も併設されていて、そこにいたユーハイムが焼いて物産陳列館(現在の原爆ドーム)にて販売したのが、日本にバウムクーヘンが持ち込まれたきっかけである。
 そしてあの原爆投下が起きると、負傷者が続々と似島に運ばれ、そのうち一部の遺体はこの地に埋葬された。現在は慰霊碑が建てられ、バウムクーヘン作り体験とセットで観光するのが定番コースとなっていたりいなかったりする。

  

 高速船が停泊した。日菜が一度松山に行った際は通常のフェリーを使ったが、チヨくらい出世すればお金のことなど気にせず高速船に乗れる。自分もチヨのように立派な女性になりたい、と耽っているとチヨが話しかけてきた。
「何考えとったの?」
「いや、えーっと、建さん元気かなって」
「ああそうかい。それにしても広島港から船に乗ってどこか行くというなぁどうも堪えるね。あの時のことを思い出さんではいられんのよ」
「あの時って、どの時?」
「後で話すよ。お腹空いた、お好みでも食べに行くかい」

  

 バスに乗って流川のお好み焼き屋に向かった。人気の店であるが早い時間だったため座敷もテーブルもカウンターも空いていて、カウンターの一番奥の端に座る。

 肉好きのチヨはお好みの前にコウネを頼んだ。広島では定番の焼肉であり、吉川晃司と奥田民生も「OK!!広島」とか言って宣伝している。部位は牛の肩バラであり、脂身と共に薄切りにすることで硬い赤身を食べやすくしている。

 この店ではアルミホイルに載せて鉄板の上に置く形で提供される。味付けはシンプルに塩胡椒とレモン。下にキャベツが敷かれているが、ホイルに肉が多少引っ付いてしまうのはご愛嬌。脂がこれでもかという程溢れ出すのだが、塩胡椒とレモンがそれをさっぱりさせてくれる。筋肉質な赤身が存在感を演出し、薄切りでも大満足の焼肉となっている。例によって脂をあまり食べられない日菜はチヨに2枚譲った。
「コウネ食えるなぁ広島の人間の特権じゃな。あの時は南国に行きたい言いよったけど、もしそうなっとったらこがいな美味いもんにゃあ出会えんかった」

  

 日中戦争の終わりが見えない中、1941年12月8日、遂に日本は真珠湾攻撃を行いアメリカに宣戦布告した。太平洋戦争の始まりである。仏印(フランス領インドシナ、現在のベトナム・ラオス・カンボジア等を指す)に進出する日本軍に対し、アメリカは石油輸出停止などの制裁を発動。このままだと日中戦争が続けられなくなる、という虞からアメリカとの交渉を始めるが、最終的には仏印・中国からの撤退を求められた(ハル・ノート)。日中戦争へ払ってきた犠牲を無碍にはできない、ということで要求を拒否、米英蘭と戦うことを決心した。
 とはいえ当時の日本国民としては、勿論対米戦争を無謀と思う人も少なくはなかったが、真珠湾攻撃にて戦艦8隻を撃破して早速アメリカに大打撃を与え、その後もマレー半島や香港等を手中に収めていく日本軍の様を見て勝利を期待する者も多かった。

  

 両親に唆されたチヨとチエも米英に対する日本軍の快進撃に高揚していた。というのも、もし日本が戦争に勝ち東南アジアを支配下に置くことになったら、チヨの一家はインドネシアに移住する計画を立てていたのである。
「南の島での暮らし、楽しみじゃのぉ」
「うまい果物いっぱい食べるもんね」
「年中海で泳ぎ放題!水着どうしようかな〜」
「気が早いよ2人とも。はい晩御飯」
「え〜、今日もめざし?」
「かばちたれん。贅沢はできんのよ」
「そうだぞ。もうすぐ日本は勝つ。それまでは我慢じゃ」
 第二次世界大戦全体を見ても、日本と同盟を組んでいたドイツは独ソ戦で着々とソ連を追い詰め、このまま日独伊の枢軸国が勝つ流れであった。

  

 しかしスターリングラードでドイツはあと一歩のところからソ連軍の反撃と厳しい寒さに苦戦して敗走。そして日本軍も、ミッドウェー海戦で米軍に迎撃されたことにより戦局が逆転した。この事実は大本営が意図的に隠蔽し、ガダルカナル島での敗戦や山本五十六戦死など、劣勢に立たされていることを国民は未だ知らないでいた。
 その最中、チヨの父の元に赤みがかった紙が届いた。召集令状である。戦地に駆り出され、生きて帰る保証の無い戦いに臨まなければならない。しかし父は喜び勇んで令状を手にし出頭した。広島港から向かうは南方、皮肉にも移住先として視野に入れていたインドネシアである。
「国のために絶対勝って帰ってくる。不安がらんでええけぇな」
「信じとるよ。日露戦争を勝った日本が負けることなんてあり得ん」
「必ずや鬼畜米英を倒して、大東亜共栄圏実現に寄与して参る」
「今は戦地じゃけど、次は王道楽土としての南方へ、一緒に行こうね」

  

 こうして父とは今生の別れをすることとなった。海軍の隊員としてジャワに配属されたのだが、その頃アッツ島の戦い敗北にて遂に大本営は「玉砕」という言葉を使用。タラワでは死闘の末敗北、1944年にはサイパン島も陥落して敗色濃厚となっていた。父はジャワからフィリピン方面へ転属となり、1944年10月、レイテ沖海戦の最中で海に沈められてしまった。こうした経緯から、最後に父を見た広島港は今でもチヨにとって胸を締め付けられる場所となっている。

  

「ごめんよ、暗い話してしもうて。食べよう食べよう、うまいお好みを」
 この店のお好みの特徴は、全体的にサラッとした味わいであること。ソースの味は控えめで、麺も細い方かと思われる。日菜は普段追加でソースをかけない主義(おたふくソースが妙に甘ったるく酸も尖っていると云う)なので少し物足りなく感じる一方、チヨは普段からソースを沢山かけるのでどんどん箸が進む。
「日菜はいつもどこのお好み食べるん?」
「えーっと、名前出てこん。何だっけあの角にある行列のできるとこ」
「何とのうわかった。そこ行ったこと無いな、今度一緒に行く?」
「並ぶけど大丈夫?」
「平気よ。港以外にいびせーもなぁ無い」

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です