「うみパンさん、おはようございます!」
「おはよう建ちゃん」
建が継いでからの近江パンは活気に溢れていた。地元の学生や爺婆が積極的に訪れ、放課後の中高生の溜まり場にもなっている。看板商品はソフトフランス、少ししなり気味のクロワッサン、コッペパンに赤ウインナーとケチャップを挟んだだけのホットドッグ等。食べログの星は3.00から上がる気配すらないが、地域の人々に愛される店だから何の問題も無い。
「建坊、しっかりやってるか?」
「はい。でも疲れますね、1人で店回すのは」
「早く良い嫁さん見つけたらどうだ。手伝ってくれる人がいた方が楽だぞ」
「嫁さん……」
そう言われてふと、美澪との日々が過ぎった。本当は今頃、美澪とここでバゲットやクロワッサン、ソーセージフランスなどを売っていたのだろう。でも仮にそんな店にしていたら、今ある客の柔らかな笑顔は無かったのかもしれない。絵文字顔文字を濫用する無責任な提灯口コミを書く客と、それを見て本当に絶賛に値する店なのか判定しようとする懐疑心塗れの批評家ばかりが訪れ、人の温かさに触れる機会は大きく減っていたのかもしれない。それならもうこのスタイルで営業を続けるしかない、美澪のことなんて忘れ……られる訳が無かった。
成城にある美澪の実家を訪ねてみようと考える建。しかし世田谷を離れ2年半の月日が経っていて、今さら出向いても美澪の家族から不審者扱いされるかもしれない。それに店は日曜祝日以外毎日営業と決めており、恋愛絡みの私事で店を閉めるのは躊躇わられる。忘れたくない、その気持ちだけで会えるものではない。ならいっそのこと忘れてしまおう。建はパンを一生懸命作ることによって、美澪の存在を忘れることに努めた。
休日は大津市内をドライヴすることが多い。琵琶湖はあるし京都との境には山もあるしで、運転していて楽しいのだと建は云う。とある日には有名な寺を訪れていた。歴史都市である大津で生まれ育ちながら全く寺社仏閣に関心を示さなかった建、この地に身を埋めるのなら最低限の知見を得ておきたいと考えた。
修行僧の中に尼が1人居た。頭を丸めているが、建にははっきり判った、それが美澪であることを。
「み、美澪さん!」
思わず声が出てしまった。美澪は咄嗟に振り返り、声の主が建であることを確認した。
「おいそこ!何をしとる?」
師僧の怒号により美澪は建から引き離される。それでも建は修行の列を追う。険しい山道も厭わずに進み、堂へ辿り着く。
「君は何をしに来たのだ」
「美澪さんに会いたいのです。……すみません、修行の邪魔でしたよね。大変失礼しました、下がります…」
「待ちなさい。君には確固たる意図が見える。呼んでくるから待っていなさい」
美澪が建の前に現れた。
「どうして今ここに……」
「嫌になっちゃった。あんなに怒られて人格否定されて、パン屋さんとしてやっていく自信が一気に崩れた」
「だからって繋がり断ち切ることないじゃん」
「ごめんなさい。本当に無理だったの。だから逃げちゃった、山の中へ」
「軽井沢の?」
「そう。でもずっと籠る訳にもいかなくて、パンを焼くことしかできない私に残された道はこれしかなかった。ならせめて、建くんと会えそうな場所にと思って……」
涙を抑えられない美澪と建。
「だから、建くんに会えて嬉しいよ……」
「俺だって嬉しい。美澪のこと、忘れられる訳なかったもん」
その様子を見ていた師僧は、俗世ですべきことがあると、美澪に還俗を促した。美澪はそれを受け入れ、建と共に山を降りる。
今後のことを考えて、1日だけ休みをください。
そう張り紙をしておいて翌日、建は美澪の実家を、美澪と共に訪ねた。その少し手前、桜新町のブロートハイムに車を停める。駐車場併設のパン屋とは有り難いものである。夕方であったため目当てのプレッツェルは売り切れていたが、それでも沢山のパンが並んでいて目移りする。

クリーム入れたてのカンノーリを早速車内で食べる建。クリームは冷んやりとしていて卵の重みがあり、生地はサクサクながらマッシヴ。少しキャンディっぽい固いものが入っているのも面白い。
「あらら、服にパイ生地零しちゃって」
「ごめんごめん、久しぶりの東京だから我慢できなくてよ」
「それ言ったら私も久しぶり。しかも生まれ故郷よ」
「だったな。お先に失礼しました」
暫くぶりに帰ってきた美澪、そしてこちらもご無沙汰であった建を、美澪の一家は温かく出迎えた。
「あらあ、坊主になっちゃって」
「ごめんなさい。でも私もう一回やり直そうと思う。今度こそ建くんとパン屋さんやるの!」
「安心したわ。でも緑川さんの件は大丈夫なの?」
緑川の試験に受からないと独立できない、という馬鹿げたルールは既に効力を失っていた。美澪の脱走により緑川への怒りを抑えきれなくなったスタッフ達がメディアに告発。パワハラが世間の知るところとなり、店にはクレームが殺到し営業継続は困難となっていた。緑川は協議会の要職を解任され、店からも去ることとなった。
「感覚取り戻さないと。またあの頃のように、パンを作る!」
「そうこなくっちゃ!」
家族の取り計らいにより、美澪と建はテラスにて2人きりになった。パラソルヒーターを点け、パンのお供としてのKRUGを開栓する。

2人が真っ先に手を伸ばしたのは、やはりバゲットサンドである。外面は硬いが中の生地はふわっとしたバゲット。2種類購入していて、ハム&チーズは肉肉しいハムが印象的。チーズ、そしてバターの風味が生地に染みて良い味を出している。

目新しいのはコンテチーズを挟んだもの。簡素な組み合わせであるが、コンテ特有の強い味わいが中の生地に上品に融合してこれまた絶品である。
「じゃあ建くん、バゲット作ってないんだ」
「そうだね」
「勿体無いよ。せっかく命かけてバゲット焼いてたのに」
「俺決めてたんだ。修業の産物、美澪のいないパン屋では出さないって。だから、やっと出せる。嬉しいんだ俺」
「建くん……」
「俺も感覚取り戻さないとな。もう何年ぶりだろう、バゲット作るの。マニュアルは作ったけど心まで再現できるかな」
「できるよ。だって私がいるから!」
「だよね!俺らならできる。絶対できる!」

オニオンソテーとベーコンのパン。こちらは一転柔らかめのパン生地。オニオンの柔らかさおベーコン本来の旨味により洒落た味わいとなっている。オニオンを飴色になるまで炒めたら、味が凝縮され仄かな苦味も出てより美味しそうである。
建と共に近江パンを営む空気感ではあるが、建はやはり躊躇いを隠せない。生まれも育ちも学校も最初の就職先も全て世田谷というお嬢様を、片田舎の小さなパン屋に引き抜くことへの抵抗は禁じ得ない。すると美澪の両親が現れて建に話しかけた。
「建さん、私達としましては、美澪のこと、お好きにしていただいて構いませんよ」
「えっと……」
「滋賀でベーカリーを営んでいらっしゃると聞きました。美澪をそこで働かせたい、とお思いでしたら、私達は喜んで送り出します」
美澪も大きく頷いた。
「建くんと一緒に近江パンやりたい。そのために滋賀の寺に行ったのよ」
「後ろめたく思うことはありません。うちの美澪を、是非よろしくお願いいたします」
残る懸念点は近江パンの商品の方向性である。提灯と評論家を寄せつけたくない、というのは美澪の不在を押し殺すためだけに並べた屁理屈であり、美澪が戻ってきた以上修業の成果は発揮したい。とはいえいきなり洒落たものを並べても今の客は手に取らないと思われる。

庶民派と本格派の架け橋となるのがこちらのミートパイ。餡に雑味が無くパイ生地も軽くで非常に綺麗な仕上がりである。
「美澪さんなら作れますよねミートパイ」
「美澪さん、じゃなくて美澪って呼んで。敬語も使わなくていいよ」
「じゃあ美澪、作れるかこれ」
「お任せあれ!ちゃんと研究してたので!」
「助かる。ミートパイなら絶対みんな喜んでもらえるからな」


ベーコンとチーズを包み込んだパン。こちらのベーコンは結構厚めで、赤身と脂身のコントラストが明確である。生地にも具材の旨味が染みていてジューシーなパンである。
「普通にさ、バゲットも売ってみたら?求めてる人いると思うよ」
「ゼロではないよな。やってみないとわからない」
「試食で一口サイズ試してもらってさ、売る時もカットして出してあげるとか。学生さんも多いんでしょ?」
「多いよ。仲間同士で来る人がすごく多い」
「カットしておけばみんなで摘みやすいじゃん?学校でも流行るんじゃない?建くんのバゲット」
「いっちょやってみるか。やっとできそうだね、俺らの理想のパン屋さんが」
「絶対できる」
「帰ってきてくれてありがとう。信じてくれて、本当にありがとう」
こうして建は、前向きな性格に戻った美澪を相棒にして近江パンをリニューアルした。懐こさのあるパンはそのまま残して、店内の半分をクロワッサン、クロックムッシュ、ライ麦パン、ミートパイ等本格的なパンの売場に充当、ボネダンヌよろしく出来立てバゲットサンドも販売する。世田谷で究めた2人渾身のパンは常連にも評判であり、その紹介で他所からも多くの客が来店。街のパン屋と本格ブーランジェリーの二面性を持つ稀有な店として忽ち話題となった。美澪と建の温かな接客も相まってか、近江パンのことを悪く言う人も居ない。
軈て2人は巨大ブロートに入刀し、末永く幸せに近江パンを営んでいったのであった。
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人気女性アイドルグループ「TO-NA」からの卒業が近づいているミレイ。その卒業制作がこのドラマ『世田谷パンストーリー』である。パン好きとして知られるミレイらしい作品に仕上がり、八木建役のTO-NAプロデューサー・タテルもご満悦である。
演技力に定評のあるミレイは、他にも様々な映像作品に携わっていた。『ぶっ翔んでアダ地区』ではマカダミー新人女優賞を受賞。さらに、某パンのヒーローが活躍するアニメを再構築した『真・麵包超人』も不定期に放送され注目を集めているのだが、ここ最近全然制作されていない。2度にわたるTO-NAの大騒動、毎回あり得ないくらい豪華なゲスト声優を登用するため制作費が高騰している、というのが主な理由であった。
「ごめんな、最後まで麵包超人の新作できなくて」
「しょうがないですよ。懐かしいですね、最初はタテルさんが病毒小子役で」
「悪役って、観てると嫌だけど演じると楽しいよね」
「ハマり役でしたねタテルさん」
「どういうことだよそれ」
「ハハハ。もし麵包超人の新作やる場合って、誰が麵包超人役やるんでしょうね?」
ミレイはTO-NAを卒業後、年明けにドイツへパン留学をすることになっている。日本での芸能活動は休止するため、真・麵包超人の麵包超人役は後輩に引き継ぎたいと考えていた。
「それはもう、ハルに継がせるのがいいんじゃない?」
「おっ、私と同じ考えだ!」
「ハルちゃんが圧倒的に適役でしょ。ミレイみたいに優しくて陽のオーラがあるから」
「決まりですね。私からハルちゃんに話しておきます」

2人が食べているパンはブロートハイムのマロンパイ。甘露煮の栗がどどんと1個入っていて、パイ生地やグラサージュにより上品な甘さが出ていている。
「本場ドイツでパン修業か。何年くらい向こうにいるんだ」
「2年ですね」
「寂しくなるな」
「TO-NAでヨーロッパツアーとかやってくださいよ!そしたら会えるじゃないですか」
「いいねぇ。国内志向とはしたけど海外もやって損は無い。それに見合うだけのステータスを得てみせるさ」
「私も世界的パン職人になります!女優もできるキューティーなパン屋さん!」
「ミレイらしいや。陽キャでも儚さを演じられ、若々しくみえて婆の喋りもできる」
「婆は恥ずかしいですって!」
「喜劇も悲劇もやれるエンターテイナー兼ブーランジェ。持ち前の優しさでみんなをメロメロにしてしまう。ドイツの新天地でも上手くやっていけるさ」
「嬉しいこと言いますね……」
「メンバーも俺らスタッフも、ミレイを遠くから応援している。つらい時は皆のこと思い出して。日本に帰ってきたら、このブロートハイムに負けず劣らずの美味いパン、食べさせてくれよ」
「もちろんですとも!」
後日、タテルはドイツ語を勉強しているミレイに呼び止められた。渡したいものがあると言われ受け取ったのは、ジャムの空き瓶とその蓋である。
「苺ジャムが入ってました。もしジャム作ることがあれば、この瓶に入れてください」
「洒落てるな。ジャム作ったこと無いけど作ってみるよ。柑橘がいいかな俺は」
「素敵です!バゲットに塗って是非」
「バターと共に、ナイスかもね。ありがとう、大事に使わせてもらうよ」
年末に卒業ライヴを開催し、諸々の準備を済ませて1月下旬にミレイはミュンヘンへ飛び立った。羽田空港での見送りを終え、TO-NAハウスに戻ったタテルは、祖母の背中を思い出しながら柚子ジャムを作る。