「緑川さん酷いですよ!流石に看過できません」
建は咄嗟に声を上げた。しかし緑川が聞く耳を持つ訳が無い。
「君は天才的なブーランジェだ。美澪みたいなまやかしのブーランジェとは不釣り合いだ。絡む必要なし」
美澪の優しさに励まされ癒されていた他のスタッフ達も結託して緑川に異を唱えたが、文句あるなら去れ、の一点張りであった。勿論言いなりになって去れば緑川の圧力で独立開業を阻まれてしまうので、大人しく引き下がる他無い。
建は美澪に電話をかけて慰めることを試みた。しかし何度かけても出ない。LINEを送るも既読すらつかない。
そして翌日以降、美澪はDernier Motを無断欠勤する。依然として誰も連絡を取ることができず、建が代表して美澪の家を訪れることになった。
「あら建さん、わざわざ来てくれてありがとうね。でも美澪は今別荘にいるの」
別荘が軽井沢のどこかにあることは、今までの美澪との会話の中で掴んでいた建。しかし詳しい場所まではわからない。
「美澪は誰にも会いたくないんだって」
「それって、私にも会いたくないと?」
「はい。御足労いただいたところ申し訳ございません」
結局美澪とは音信不通となってしまった。1週間後、緑川は何の迷いも無く美澪を解雇した。
「一番がっかりしてるのは俺だから。仕事は丁寧だったのに残念だよ。俺の教えとは違うパン作ってこられて、裏切りもいいところだよ。建くん、あんな奴のことは忘れて店の開業に注力しなさい。そのうち君の店に来ると思うよ」
緑川の放言を聞き流す建の心に募っていたのは後悔の念であった。美澪が飛び出していった後、追いかけて引き止めれば良かった。バゲット気泡潰し事件で怒られ外に出た自分を止めてくれた時のように、今度は自分が美澪を止めれば良かった。そして家に連れ込んで、隣で慰めてあげれば良かった。しかし現実は目先にあった緑川の暴挙を戒めることに気が逸ってしまい、美澪を闇へ逃避させてしまった。何というヘマをしたのだろうと考え耽ける内にその日の業務時間は過ぎていった。
さらに悪いことにその3日後、建の父が脳梗塞で倒れたとの報せを受けた。幸い一命を取り留めたが、四肢の自由を喪失し、喋ることさえままならないと云う。近江パンの店先に再び立つことは困難であると担当医が宣う。
「建ちゃん、試験合格したんだよね。お父さんの代わりに近江パン、やってくれない?」
そう母から依頼を受けた建。美澪と店を開く計画が破綻した今、近江パンを継ぐことが一番綺麗な道であるように思えた。建はDernier Motでの残った仕事を片付け次第帰郷することを決心した。
大学に入った時のように自転車を店の後輩に託し、いよいよ部屋を引き払う前日。帰郷前最後のパンを、定休日の都合で足を運べずにいた砧のプレジール(代沢にあるモンブランが有名なパティスリーとは異なる店のため注意)にて購入することにした。
祖師ヶ谷大蔵駅から成城学園前方面に進んだ住宅街に店がある。日本一のパン屋、との呼び声も高くて、開店前から行列ができることでお馴染みの店。しかし近くまで来ても人の集う雰囲気が無い。

まさかの臨時休業であった。スタッフの緊急入院に因るものとのことである。パン・オ・フリュイの名店ということで楽しみにしていたのに、悉くついていない建。祖師ヶ谷大蔵の駅方面へとぼとぼ歩き、商店街のパン屋で自棄買いをして部屋に戻る。
片付けの済んだ真っ新な部屋の中で、Dernier Motでの修業の日々、そして美澪との日々を思い出す建。プレジールに足を運んだのはこの日が初めてであったが、まだ建が駆け出しだった頃1回だけ、差し入れでその店のパンを貰ったことがあった。と言っても名物のパン・オ・フリュイは遅い時間のため入手できなかったとのことで、いたってベーシックなブロートとライ麦パンのみであった。


それでもはっきりと覚えているのは小麦やライ麦の質の良さ。具が何も無いからこそわかる素材の芳しさである。
この日以来、建は小麦による味の違いを研究するようになる。やがて定休日になると小麦畑に足を運ぶようになり、良い小麦を求めて弾丸で北海道まで飛んで行くことも厭わなくなった。
ある日には美澪と共に小麦畑の中心で佇んでいた。
「この小麦は素晴らしい。俺の理想のバゲットに貢献してくれるだろう」
「そうだね。飛ぶように売れるわ」
「何気なく使っていた小麦粉に個性を見出すなんて、最初の頃は想像もしなかった。美澪とパン屋やる、なんて昔の自分に言ったら驚くだろうなあ」
「そう?私はイメージしてたよ」
「どういうこと?」
「運命感じてたんだ。誰かとパン屋さん営むなら、建くんかなって」
「そんな、今となっては何とでも言えるだろ」
「本当に思ってたよ。パリの空の下で傘を貸して、トトロのカフェで再会して。こんな偶然無いでしょ?」
「……本当だな。それ絶対運命だよ、間違いないや」
「でしょ?私、いつかは建くんの故郷に行きたいな。近江パンのパン食べたい」
「あれ?まだ食べてなかったか」
「食べてないよ。カレーパンとかクロワッサンとか、どんな味なんだろう」
「今度の休み一緒に行こうぜ。と言いたいところだけど、休みが短いから厳しいか」
「試験合格して、余裕ができたら行きましょう。その頃にはきっと私達……」
「どこにいるんだよ美澪……どこいったんだよ!」
美澪のことなど気にするまいと、寂しさを押し殺していた建。押し殺せる訳が無かった。夢を語り合った部屋はすっかり片付き、美澪の俤は完全に消失した。悲しくてやりきれない。明るくて前向きでいっぱい褒めてくれて、物事を斜めに見る癖を正してくれた美澪はもう居ないのである。
「母さん、レシピを見せてくれ」
「レシピ?だってあんた、自分で一から作り方考えたんでしょ色々?」
「いいんだ。今までと同じ味の方が、皆安心するだろ」
「それはそうだけど……良いのかい?」
「ああ」
バゲットやクロックムッシュ等は、あくまでも美澪と営む店で出すものだと決めていた。美澪がいない今、それを披露する理由は無い。
1ヶ月の休業を経て、近江パンが営業を再開した。店主になった建は忠実に親の作っていたパンを再現し売る。客が安心するパンだけ作っていれば良い。世田谷の名店で修業した本格派ブーランジェとしての建はそこに居なかった。