連続百名店小説『世田谷パンストーリー』épisode 3(トロ コーヒーアンドベーカリー/世田谷代田)

それから1年が経とうとしていた頃。建は3年生となり、今さら実家のパン屋を継ぐ気も無いため就活を始めていた。インターンシップに参加するが、上司との折り合いが悪くて、働くことへの意欲を失ってしまった。就活はサボりがちとなり、このままバイト生活を続けながら夢を模索するか、大人しく実家に帰るか、消極的な選択肢を抱えながら日々を過ごす。

  

ある日曜日、建は自転車を飛ばして世田谷代田にあるカフェを訪れた。休日(殆どの日がそうであるが)は昼近くまで寝ているから、店に到着したのは13時過ぎであった。それでも長い行列のできる人気のカフェである。

  

誰よりも早く列に並びたいハングリー精神の持ち主建は真っ先に列に接続したが、待ちが発生している場合は店の2階入口で記名しなければならない。それに気づかず並んでしまうといつまで経っても入店できない。1階入口にその旨は書いてあるのだが、一目でわかるものではないし、列を横目に狭い階段を登りに行くのも気が引ける。陰気臭い建に対しては並んでいる人達もその旨を教えてくれない。なんて意地悪なトラップなんだ、と恨み節を唱える建。

  

10分程して後ろに1人の女性がやってきた。人の気配を覚え振り向いた瞬間、その女性が美澪であることに気付く。

  

「あっ……」
建は軽くリアクションをしたが、赤の他人だからとすぐ外方を向いてしまった。
「あの、建さんですよね!」
「すみません、何で俺のことを」
「そんな他人行儀しないでください。悲しいじゃない」
「えっ……」
「私、1年近くずっと思ってたのよ、建くんのこと。何で家に来てくれないの?」
「それは、美澪さんのこと、嫌な気持ちにさせたかなって……」
「……そう思わせてしまったのならごめんなさい。私、すごく寂しくて」
「俺も寂しかったよ……」

  

建は人目も憚らず号泣した。
「俺、どうすればいいかわからんっすよ。就活も嫌になったし実家に戻ってもパン作れないし。何やってんだろうって情けなく思う毎日、もう死にそうで!」
「落ち着いてよ建くん。悩みなら聴いてあげるから、一緒に食事しよう」

  

美澪は一旦列を離れ、自分の名前を消し建の欄の人数を「2」に変えた。その後建はこの1年あったことを、親にその日あったことを伝える子供のように美澪に対し捲し立てた。
「それだと、パン屋さん継いだ方が良いかもね。親御さんも喜ぶと思うよ」
「専門学校行かないと、ですもんね」
「学校行く必要は必ずしもないわ。私は経済的余裕があったから通ってたけど、いきなり正社員として店で働く人の方が多いみたい。親御さんもそうだったんじゃない?」
「確かにそうかも。ってかあの時代にパンの学校なんて無いよな」
「激務ではあるけど、入りさえすれば生活は安定する。手に職をつけて、自分の存在意義も見えてくるようになるわ」

  

続々と先客が退店し、20分もしないうちに入店することができた。パンを食べるつもりなど無くてこのカフェを訪れたが、実態はカフェスペース主体のパン屋であったため結局パンも食べることになった。スマホでメニューを確認すると大半のパンは売り切れていたが、クロワッサンが残っていたのでパスタプレートと共に注文する。1階の店(別店舗)で売られているトトロを模ったシュークリームも発注できるので追加した。

  

「美澪さんは既にどこかのお店に?」
「ええ。馬事公苑の近くにあるベーカリーに」
「馬事公苑?どこですか?」
美澪はスマホを取り出し地図アプリを開いた。
「ここですか。駅から遠い、そりゃ知る由もないや」
「自転車通勤だよ。毎日午前2時には家を出る」
「天体観測かよ」
「ホントだ、アハハ」
「健気だな。俺なんて昼過ぎまで寝てるというのに」
「パン作りは時間がかかる。朝型人間じゃないと、パン屋さんにはなれないわよ」
「朝型が過ぎるって」

  

先にクロワッサンが提供された。かなりこんがりと焼かれており、食感もガリガリと砕く格好。建は上京してからバター染み染みでジュワッとした類のクロワッサンばかり食べてきたので、この作品に対してはあまり心を開けなかった。

  

ドリンクはローズマリー入りのレモンスカッシュ。世田谷のカフェはいちいち洒落ている。

  

パスタプレートも同時に提供された。たらこソースを絡めた生パスタは建の大好物。モチモチした若々しい食感、そこによく合うのが焼いた万願寺とうがらし。さらに赤魚のフリットも添えてあって、硬さはありつつも旨みが詰まっていて満足する欠片である。つるつるしたハードパンは相対的に印象に残らない。

  

「お休みとかとれてます美澪さん?」
「取れてるよ。日曜祝日が定休日だから」
「良かった。忙しくてぶっ倒れないか心配だから」
「好きだからね。休日だっていろんなパン屋さん行って研究するんだ。職場の人と一緒にね」
「休みの日も同僚と顔合わせるなんて」
「みんな仲良しだからね。建くんもきっとそうなるよ」
「え?どういうこと?」
「建くんも一緒に働かない?実はさっき店主さんにLINEしたんだ、紹介したい人がいるって」
「おいおい、話が早いよ」
「パン屋さんになりたいんでしょ?チャンスは目の前、活かすしかない!」
前向きすぎる美澪の後押しに、建は従うほかなかった。

  

カフェラテを頼み、デザートのトトロ型シュークリームを迎える。食べるのが惜しいくらい可愛らしく、2人ともフォークを刺す決心がつかない。5分くらいして漸く建が、耳と耳の間から真っ二つに裂いた。人の良い美澪も追随して、謝罪の弁を何度も唱えながら切った。

  

シュークリームとは謳っているが生地は厚く表面もなだらかであり、クリームもそこまでコクが深い訳ではない。敢えてヨーグルトクリームを選んだ方が目新しくて面白かったかもしれない。

  

「建くん、明日から早起き頑張ろうね!」
「早起きかぁ、苦手だなすっかり」
「私が2時になったら電話かけてあげる。ちゃんと出てね」
「嘘だろぉ!」

  

口先では文句を垂れる建であったが、天真爛漫な情熱家である美澪に惹かれていたから素直に従った。この日は8時には床に就き、2時のアラームでしっかり目覚め美澪の着信を受け取った。その後面接にも合格し、まずはアルバイトとして美澪と共にパン屋で働くこととなった。

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