エキストラ俳優・宮本建。演技力は誰にも負けないと自負するも、芽が出ず不貞腐れる日々を過ごす。
そんなある日の現場、建は同じエキストラ俳優の山田ハルカに出逢った。前向きで優しい姿勢で場を和ませる彼女を目の当たりにし、建は真っ直ぐ夢を追おうとする。
「ごめんな、強気な姿勢が裏目に出てしまった」
「そもそも私が断れなかったのが悪かった。建くんを巻き込んでしまってごめんなさい…」
「こうなったら仕方ない。また取り立てが来ると厄介だから、借金でもして一旦支払うしかない」
「それはできない。お金を借りるなんて迷惑かかっちゃう」
「じゃあどうするんだよ。ハルカを危険に晒す訳にはいかない」
「でも私が蒔いた種だから…そしたらさ、一旦別れよう」
「どうしてだよ」
「これ以上建くんに迷惑かけるわけにはいかない」
「そんな、俺がハルカのこと見捨てられるかよ!ダメだぞ俺は離れない」
「いいからいいから!短い間だったけど楽しかったよ、ありがとう…」
こうなるともうハルカの気を変えることはできないと、建は誰よりも熟知していた。後ろ髪を引かれる思いではあるが受け入れるしかない。最後に2人で見る月は十六夜の月といって、満月から下弦の月、そして新月へと欠け始めていた。ハルカと過ごした短い時間が、建にとっては我が世最後の春であった。悪を許さない真っ直ぐな気持ちが、自らの役者人生を終わらせることになるとは思ってもいなかったのである。
最後と決めたエキストラの現場は五反田にある手狭な学校風スタジオ。12時に撮影開始のため、いつものように少し早く入ってランチを摂る。スワチカという洋定食の店に11時10分前に到着、2人組1組に後続した。その後に続く者はいなかったが11時4分前、早めの開店となった。開店間際は比較的客が少ない模様で、奥から詰めて座る必要もなく見知らぬ客とディスタンスを保つことができる。
恐らく夫婦で営んでいて、女将は第一印象こそ冷淡に思えたが、言葉を交わしてみると学生応援系食堂のような安心感がある。料理完成間際で電話がかかり中座した客に対して、戻って来た時にご飯をよそい直してくれるなど対応も良い。
心を癒してくれるハルカがいなくなり、今度こそ芸能界から足を洗う決心をした建。ただハルカと出逢う前とは違って表情は明るくなり、職探しへの不安も口にしなくなった。清々しい気持ちで第二の人生を踏み出せる。ハルカと過ごした日々は間違いなく、くすんでいた建に光を与えていた。
カレーライスの次に安いスワチカランチを注文した建。何が入っているかわからない安物のメンチとは違って粗挽きになっていて、胡椒の効かせ方が良くて肉の旨味がよく立っている。そして肉汁が流出することなく閉じこもっている。若干流れ出してもライスが受け止めるので問題ない。
とはいえメンチカツはご飯のおかずとしてはやや心許なく、体育会系の人かデブでない限りご飯が余るものである。建はそれを豚汁にぶち込む。豚肉の脂の甘みを感じられる、下品だが悪くない食べ方である。
建含め3組いた客が似たタイミングで退店し、次の1人客がやってきた。就職して安定した稼ぎを得られるようになったら、空いている開店間際に来店して、今度は1000円を超えるカツカレーやエビフライ定食を食べようと心に決めた。
最後の撮影では監督から少しだけ台詞をもらえた。瑣末なアドリブでの発声は何度もあるが、直々に台詞を戴くことは1ヶ月に1回あるかないかである。これで心置きなく役者業を終えられる。今まで学んできた演劇のいろはを全てこの一言に注ぎ込んだ。
「俺、今日でエキストラ辞めます。新しい仕事探して、新しい人生歩みます」
エキストラ仲間へ引退を告げた建。謙虚で悲しげな態度に、仲間は同情する。
「そんな、悲しいですよ!建さんハルカさんと一緒に売れて海外旅行したかったのに!」
「ごめんよ。でも仕方ないんだ、俺はハルカを守れなかった。責任を感じてる」
「あれはハルカさんが100%良くないです!建さんの知らないところで手続きしたんですもんね、これだからハルカさんは危なっかしくて…」
「それを止めるのが俺の責務だった。でもできなかった。でもハルカのお陰で俺は真っ直ぐ生きることを学んだ。未練は無い。普通の人として誠実に生きるさ。もしハルカが無事に現場に戻って来れたなら、ハルカのことは貴方達に任せた。誰がやるかはわからないけど、ハルカのこと、幸せにしてあげてな」
その足で事務所へ出向く建。社長に別れの挨拶をする。
「短い間でしたがお世話になりました」
「寂しいな。せっかく演技も上達したのに辞めちゃうなんて」
「ハルカさんがいないとやる気出ないんですよね」
「ハルカくん、連絡あったけど心配だね。建くんを手放すこと無いのにね」
「いい人すぎなんですよね…やっぱり一緒にいてあげた方が良いですかね?」
「そうだよね。電話してみれば?僕からも説得するから」
建からの電話とわかると出ない可能性が高いため社長から電話する。
「ハルカくん、本当に一人でいいのか?建くんと一緒にいた方が安全だ」
「ちょっとごんべんさせてください」
「ごんべん?」
「代弁したいです」
「弁明って言いたいのか?」
「そうそうそれです。建くんに相談もせず、変な広告に引っかかり、オプションを断りきれなかった。全責任は私にあります。だから建くんまで危険な目には遭わせられません!」
「建くん今事務所に来ててね、もう役者辞めるって言ってるんだ。ハルカくんが一緒じゃないとモチヴェーションが沸かないって」
「そうなんですか…」
「建くんに代わろうか?今ここにいるから」
「お願いします」
「もしもしハルカ?やっぱりお前のことが心配だ。一緒にいよう、そしたら俺はもう少し役者がんば…」
電話口から大きな物音がし、間も無くハルカの悲鳴が聞こえた。
「社長、大変です!ハルカさんが襲われたかも!」
「それは大惨事だ。急いでハルカくんの家に!」
「僕は110番します!社長はタクシーの手配を!」
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