連続百名店小説『WM』第8部(慈久庵/常陸太田)

茨城大学の卒業生・渡辺美加(29)と渡邉美佐(26)は、茨城大学の近くで今時な紅茶カフェ「ごじゃっぺ」を営んでいる。そこに客としてやってきたのは、現役茨大生の渡辺実奈(18)。同じワタナベ、同じイニシャル、同じ茨大生である3人は出逢ってすぐ打ち解けた。美加と美佐は共に恋人を亡くした悲恋がトラウマとなり、恋することを拒んでいたが、茨大の同級生・渡部猛太と交際する実奈の姿をサポートしたことにより、再び恋に前向きになっていた。しかし肝心の実奈と猛太は、すれ違いにより別れてしまっていた。
*年齢は第1話時点。

  

8月末日、美加・美佐・実奈の3人は内定祝い兼最後の思い出作りとして、奥久慈にあるマサユキの実家へ遊びに行くことにした。運転は実奈が担当する。
「楽しみです!山奥でお泊まりなんて初めてで」
「広いお家でのんびり、こんな贅沢なかなかないからね」
「川遊びもしたいところですけど、この天気だとどうでしょう…」
「台風が来るのは明日の午後らしいけど、雨がいつ降り出すかだね」

  

昼食は竜神大吊橋の近くにある蕎麦の名店「慈久庵」を訪れる。常陸秋そばが名物である茨城県の中でも最も人気の店であり、10:30には到着しておかないと1巡目から溢れる可能性がある。しかしスーパー台風が接近する怪しい天気であったためか、この日は11時近くの到着(休日常陸太田駅から路線バスでアクセスする人はどう足掻いてもこの時間の到着となる)であってもギリギリ1巡目に入ることができた。公式の開店時刻より30分弱早く入店する。

  

「今日はお手伝いの人がいるからまだマシなんだけど、ここはとにかく提供に時間がかかるんだ。単品じゃなくてコースがおすすめよ」
「山うど・こんにゃく・いわな…実奈ちゃん食べれそう?」
「はい。食わず嫌いリストには入ってないです」
「じゃあ7品フルコースでいこうか」

  

コースを頼んでも提供までには30分の時間を要する。単品を頼んでいた隣の男性は最終的に1時間も待たされていたため、暇潰しのアイテムは持参不可欠である。3人が時間潰しに選んだ方法は恋バナであった。
「え⁈美加さん、恋人できたんですか⁈」
「言ってなかったよね、ごめん。日立にいる幼馴染の子なんだけどね」
「結局幼馴染が一番ですよね。お互いのことよくわかってるし」
「休みの日は遊園地行ったり海見たりして楽しんでる。サイゼとかよく行くね」
「私サイゼ行ったことないです」
「サイゼ行ったことないの実奈ちゃん⁈」
「なんか行く気しなくて…」
「サイゼでデートすると、高校生の時に戻ったみたいで面白いよ。はぁ、やっぱり恋って楽しいよね」
「美加さん、恋始めてからだいぶ活き活きとしてますよね」
「実奈ちゃんも東京でいい人と巡り逢えるといいね。どんな人がタイプ?」
「明るい人がいいですかね。猛太くん、正直暗すぎて合わなかったと思います」
「実奈ちゃんもどちらかというと大人しめだから、明るい人の方が一緒にいて楽しいかもね」
「全くその通りです。それに猛太くん、多分コンプレックス抱いてたんじゃないかと…」

  

「渡部君、また実験ノート書いてないじゃないか!」
「す、すみません…」
「こないだの進捗報告もお粗末だったし、研究に対する姿勢がまるでなってない。大学院行っても苦労するだけだから早く就活でもしたらどうだ」
猛太にとって、茨城大学への入学は本望でなかった。彼が目指していたのは、同じ茨城県内の国立大学でも、世界水準の研究が盛んで地元北千住から十分通える範囲にある筑波大学であった。模試では合格圏に入っていたものの、センター試験の点数がふるわず、代わりとして予備校から提案された茨城大学を受けることになった。何とか合格し、浪人することも嫌ったから進学したものの、求めていた一流の授業を受けられず、車社会で自由の少ない土地での一人暮らしも相まってストレスが溜まる一方であった。サザコーヒーと実奈だけが猛太の癒しであったが、卒研が始まる頃にはモチヴェーションが最底辺まで落ち込み、そのくせ教授に拘束されるものだから何もかもが嫌になってしまった。

  

「私がいてもこの葛藤は拭い切れなかったと思う。仕方ないですよ」
「実奈ちゃんが恋に本気だったお陰で、私たちも新たな恋をする勇気を得た。それだけでもすごく嬉しい」

  

漸く料理が登場した。先頭の3品が一斉に提供され、寡黙そうな店主が各料理の説明をしてくれる。

  

まずはこの辺でよく作られていると云うさしみこんにゃく。青のりを練り込んだ類が有名な食べ物だがこちらは無色。醤油が無いと無味であるが、飲み込む前にフルーティな味わいを感じられることもあるから面白い。


  

山うどは苦味を活かしつつも、上にも載っている醤(ひしお)の旨味・発酵した酸味が染み込んで美味しい。これぞ山の御馳走という一品に、好き嫌いの多い実奈もご満悦であった。

  

岩魚はどうやら一夜干しのようである。川魚だからと言って臭みなど一切無く、飾らない旨味が凝縮されている。骨などもカリカリに焼かれていて食べやすく、きれいさっぱり完食した。

  

美加と美佐は日本酒も嗜む。宮内庁にも献上されたこの店オリジナルの特撰酒は、流行りの透明感ある味わいと昔ながらの重さを両立させた稀有な存在。岩魚が少しクセのある食べ物なので、こんにゃく→岩魚→うど→日本酒という順番で四角食べ飲みすると全ての良さを楽しめる。

  

「美佐さんも良いお相手さんいらっしゃるんですか?」
「まだだね。今度会う約束してる人はいるけど、あまり期待はしないでおく」
「マッチングアプリですか?」
「そう。まさか自分が使うことになるとは思わなかったね」
「本当は成り行きで出会いたいところだけど、贅沢は言えないよね」

  

間も無くそばがきが登場した。硬くならないうちにまず一口食べると、蕎麦の実の香りがちゃんとあった。鼻を澄ませないと感じられない蕎麦の香り。それは他の料理や日本酒によりすぐかき消されてしまうくらい繊細である。味噌と合わせても消えてしまうが、それはそれで何となく良い味わいになる。砂のようなジャリっとした食感がたまにあるため、奥歯の窪みを痛めつけないよう気をつけたい。少し冷めて硬くなると、蕎麦の香りに輪郭が生まれわかりやすい味になる。

  

「竜神大吊橋って、バンジージャンプの名所ですよね。飛んだことあります?」
「冗談よしてよ、あんな怖いのやりたくない。ね、美加さん?」
「そうね。でもマサユキくんはよく飛んでた。何の迷いもなくすぐ飛んでいっちゃうし、最後行った時なんて後ろ向きで飛び降りてた」
「強心臓ですね。私にも到底真似できない…」
「たしか1回2万円くらいするんだよね。それで飛べなかったらバカみちゃう」
「吊橋は景色を楽しむだけで十分ね」

  

そばがきが来てから約15分後、野草天ぷらが揚がる。左からギシギシ、スベリヒユ、下はタンポポ。大きな一枚葉のギシギシは、苦味を適度に感じられる大人のチップスへと変貌している。スベリヒユは茎に酸味があるのが特徴だが、草の味はかなりかき消されスナック感覚でいただける。タンポポの葉は後から苦味が押し寄せる。
ここまで里山料理が続いているが、天ぷら用の塩はオーストラリア産である。天ぷらは何もつけなくても美味しいからここでは特に活躍しないが、せいろそばに使うことを考え手元に残しておいた。
美加と美佐は古酒を追加発注した。こちらは完全に昔ながらの日本酒であるが、クセなどなく美味しくいただける。

  

「実奈ちゃん、次せいろそばが来るけど、お勧めの食べ方教えてあげる」先輩風を吹かす美加。
「大丈夫です。ひたちなかで食べた時みたいに、つゆに少しつけて啜るんですよね」
「ダメ。この店でその食べ方はもったいない」
「どういうことですか?」
「蕎麦本来の香りがわからなくなっちゃう。そばがきでわかったと思うけど、この店の蕎麦はホンモノだから、最も粋な食べ方で迎えなくちゃね」

  

噂のせいろそば。指示通り何もつけずに食べると、やはり蕎麦の香りがしっかりある。長さこそないものの、噛み応えもあるから真剣に蕎麦の味に向き合える。そして塩をつけると蕎麦本来の味がより引き立つ。偶につゆを少しだけつけて出汁の空気感を纏わせる。以上3種類の食べ方をローテーションするのが美加と美佐のやり方である。

  

「そうだ、実奈ちゃんに言おうと思っていたことがあって」
「どうしたんですか?何か神妙な面持ちですね…」
「実はね、来年の3月でごじゃっぺを閉めようと思ってる」
それを聞いて実奈は絶句した。何故なんだ、と聞き返す気力さえ喪失していた。
「実はね、実奈ちゃんが忙しくしている間に近くにコーヒーショップができたの。『アレクサンダーコーヒー』っていうすごくお洒落なお店」
「やっぱりみんなコーヒーの方が好きなんだろうね、うちのお客さん続々と吸い取られた」
「そんな…」
「実奈ちゃんがいなくなって、美加さんも交際中だし、タイミングとしては丁度良いかな。私もバイトしながら良い相手探すよ」
「残念ですけど、仕方ないですね…」
「離れても私たちは友達だから。定期的に茨城に戻っておいで」

  

デザートは13年漬けた梅に烏龍茶の茶葉を載せて。優しい甘さが揺れた心を落ち着かせる。
「美味しかったです。山の料理って、心温まりますね」
「いいでしょ。新しい恋人できたら連れてくるといいよ。じゃあ竜神大吊橋行こうか」

  

曇り空の中ではあったが、切り立った深緑の織りなす風景は見事である。

  

「実奈ちゃん、ここ立ってみな」
「はい」
「下見て」
「…うわあ!下が丸見えこわいこわいこわい」
「驚いたでしょ?」
「やめてくださいよぉ〜」
「ごめんごめん。マサユキくんにもやられたんだよこれ」
「楽しそうで何よりですね!まあ悪い気はしませんけど…」

  

山を一旦降り、北の山奥にあるマサユキの実家へと向かう。朝の予報では夜に降り始めることになっていた雨が、袋田の滝に差し掛かった辺りで降ってきた。
「台風が思ったより早く接近している。家着いたらゆっくりするしかないかもね」
「そうですね。川遊びは諦めます…」

  

雨が降りしきる中、マサユキの実家に到着した3人。急いで玄関に駆け込む。
「お母様、お世話になります!こちらが美佐ちゃんと実奈ちゃんです!」
「よろしくお願いします!」
「遠いところ来てくれてありがとう。雨すごかったでしょ?」
「車から玄関に来るだけでこんなに濡れちゃいました…」
「あらあら。とりあえず靴と靴下だけ脱いで、上がって上がって」

  

生前のマサユキが着ていたジャージに着替えた3人。美加と美佐は背が高いため違和感なく着られたが、小柄な実奈には大きすぎた。
「あらま、実奈ちゃんにはぶかぶか過ぎたね」
「でも最近はオーバーサイズの服が流行ってるからね。可愛らしい、すごく似合ってる」
「エヘヘ…」

  

安らぎに訪れたつもりの家は、外から吹き荒れる強風で大きな音を立てていた。人はその中で恐怖に慄くものである。だがマサユキの母はすっかり慣れてしまったようで、悠然と夕飯のカレーを拵えていた。
その時、実奈に一通のLINEが届いた。連絡先を消していたはずの猛太からである。

  

ワマ沢付近の林道で土砂崩れに巻き込まれた!怪我して動けない、救助も出払っていて来ないんだ!助けて…

  

猛太のことを突き放していた実奈であったが、体が勝手に外へ飛び出していく。美佐が制止しようとする一方、恋人を土砂崩れで失ったトラウマがフラッシュバックした美加は実奈に同調した。恋人の次は、大切な部下であり友達である人を失うかもしれない。美加は居ても立ってもいられなかった。
「私も行く」
「ダメでしょ美加ちゃん」マサユキ母が止める。
「土砂災害をナメちゃいかん!マサユキの事案から何を学んだの?」
「そうですよ美加さん!新しい恋人もいるというのに…」
「でも実奈ちゃんと猛太くんを放っておく訳にはいかない!それに私、マサユキくんと同じ運命を辿っても、いいと思ってる…」

  

結局のところ美加と実奈は、濡れたままの靴を履きワマ沢方面へ車を走らせる。ワマ沢はマサユキ宅から2km弱の場所にあるが、曲がりくねった道と暴風雨のためあまり速度を出すことができない。10分ほどかけて漸く現場に到着する。
「ダメだ、土石流の先に車は入れない。歩いていくしかないね」
「2人で抱えて戻りましょう」
「猛太くん!」
「実奈、来てくれたのか…」
「急いで戻ろう!話は聴いてあげるから」

  

急いで車へと戻る3人。雨風強まる中、必死で土石流の反対側へ猛太を連れていく美加と実奈。車まで10mくらいのところまで来た時のことであった。再び土石流が発生し3人を巻き込もうとする。美加は咄嗟に実奈と猛太の上に覆い被さった。

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