アイドルグループ「TTZ48」のエースメンバーだった直(享年19)。人気絶頂の最中、突如自ら命を絶ってしまった。兄でタレントの建(25)は地元鎌倉を歩きながら、直と過ごした日々を思い返す。
静養すること半年強、直は活動を再開した。復帰したてのシングルではセンターを務め、念願の東京ドームライヴにも、全曲ではなかったが力の限り参加した。直が突如命を絶ったのは、そのライヴの2週間後だった。
その報せを聞いた建は唖然とした。この期に及んで帰らないという選択肢はなく、建は2年ぶりに鎌倉の地を踏んだ。
「直…直!なんてことを…」
5年ぶりに会った自慢の妹は、変わり果てた姿になっていた。建は泣くことしかできなかった。
「パンも買ってきたから食べよう」
店には15時近くに行ったため、パンの種類はあまり多くなかった。それでも名物と思しきあんパン、ブリオッシュメロンパン、そして変わり種のトラピーという3種類のパンを購入した。
「建、まだ食べる気?いい加減にしなさい」
「せっかくお金貯めて鎌倉に来たから、できるだけ色々な店巡りたいんだ。生きていられる内にね…」
直はビルの屋上から飛び降りたという。ひどい傷であったがエンバーミングにより辛うじて面影は保たれ、死化粧が綺麗に施されていた。建にとってはそれが唯一の救いであった。
「力になってやれなくて、お兄ちゃん悔しいよ…」慟哭が止まらない建。
もし小4の時いじめからいち早く直を救えていれば、活発な子のまま成長してまた違った未来があったのだろう。もしあの夜アイドルになることを勧めていなかったら、直は人見知りこそすれど普通の女性として生きていたのだろう。もし直が休養で戻って来たとき建も帰っていれば、もっと直と多くの時間を過ごせたし、この世を去るという選択肢なんて考えもしなかっただろう。
仮定法の文の数々が、建の心を締め付けた。葬儀が終わってから1週間、建は何もすることができなかった。
現世の建はまずあんパンを食べる。たっぷりかかったけしの実が独特の食感を生み、柔らかいパン生地と甘さ控えめのあんこで心が落ち着く。
「俺もアンパンマンみたいに、傷ついた人たちにあんパンの欠片を差し伸べてあげたいんだ。直にしてあげられなかった分、今を生きている人に幸せになってほしい」
理屈っぽい建は、何が直を死に追い込んだのか知りたかった。だがそれは憚られた、当事者は皆、建と同じように直を失って憔悴していたから。それでもある程度の心当たりはあった。
休養前から批判されることが多かった直だが、休養に入っても止むことはなかった。むしろ「何休んでるんだ」「逃げるなんて卑怯だ」など、情のない中傷がエスカレートしていたのだ。休養が明けても活動への参加には未だ制限があって、一方で外仕事も舞い込んだため、アイドル活動を蔑ろにしていると(もちろん本人にそのつもりはない)言われることが多かった。特に従来のファンから目の敵にされ、メンバーが直を守ろうとしても聞き入れてもらえなかった。終いには週刊誌にもあることないこと書き立てられ、直の心は追い込まれていた。
「ネット掲示板とかTwitterって恐ろしいよな。どんな嘘でも、どんな悪口でも、平気で発信できてしまう」
「まああそこの住民の8割は、人間辞めてるからね」
「あんな可愛い子によく文句言えるよな。話通じない奴らだし、まるで失敗国家だよな」
そんなことを言いつつ、建も評論家のようにブリオッシュメロンパンを味わう。少し塩気のあるカリッとした外側が特徴。塩気は甘さを上品に引き立て、クセになる味わいである。
「ちょっと塩辛さがある方が人生は魅力的だと思う。でもこの世は刺激が強いし尖りすぎている。世知辛いよな」
建は「直の兄」であることを公表し活動するようになった。何度も述べているが、直がいた日々を忘れないでほしい、直の遺してくれたものを伝えたい、という思いで建はタレント活動をしているのである。しかし世間からは「直を踏み台に売れようとしている」と批判される。性善説の死んだ世の中では自然な見方なのかもしれないが、それにしても耐え難い仕打ちであった。
トラピーはくるみとレーズンの入ったクリームをフレンチトーストでサンドした新感覚のパンである。柔らかいフレンチトーストがクリームを包み込み、くるみとレーズンの食感が色をつける。
「ここのパンは多様性に寛容だ。ペースは人それぞれ。考え方もいろいろあっていい。みんな『かくあるべき』に縛られすぎなんだよ」
直の一件によりメンバーには深い心の傷が生じ、TTZ48は活動不全に陥った。直をいじめたからこんなことになったんだ、とかほざく奴もいて、残されたメンバーはさらに傷を抉られた。結果として半数以上のメンバーがこれ以上の活動は無理だと言い、グループは解散することになった。
「俺の大好きなTTZをよくもめちゃくちゃにしてくれたな」
メンバー、そして建に対する誹謗中傷は強まるばかりだった。
「母さん、ちょっと海に行ってくる」
直と生前最後に語り合ったいつもの海。そこには見たことのない景色が広がっていた。茜色の雲が大きな渦を巻き、夕陽の方を見ると海の青はセピアみを帯びる。波打ち際は一部父母ヶ浜のように鏡状になっていて、インスタ女子がちらほら集っていた。その他にも散歩に来た老人、レゲエをかける外国人、カラスを手懐ける男、豆柴の大群を連れた女などがいて不思議な雰囲気を醸し出していた。何とか波打ち際まで歩き、水平線の先の直に呼びかける。
直は自分であれこれ抱え込んでしまう癖があったよな。俺もそうなんだ。今俺は悩んでる。直をあの世に追い込んだのと同じように、俺も追い込まれようとしている。でも俺は負けない。直と同じ苦しみを持つ人たちを俺は救わなければならない、そしたら直は、人々の心の中で生き続けてくれるから。
そのとき、突然の風と共に、女性の叫び声がした。
「キャー、犬が海に入っていった!」
豆柴の大群のうちの1匹が海に入ってしまい溺れていたのだ。タテルは犬を救おうと着の身着のまま海に飛び込んだ。
「直が…直が俺を呼んでる!」
建は犬を抱いたまま溺れもがいていた。力を振り絞り犬を岸へ放り投げると、建は波にさらわれた。
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