連続百名店小説『雪の中で笑う君は』秋パート 第3話(こすげ/長野)

女性アイドルグループ・TO-NA(旧称:DIVerse)のメンバー・マナと特別アンバサダー・タテル。DIVerse時代、逸材とされながら突如卒業、行方をくらませたマシロを捜していたところ、マシロは重病を患っていて、かつての仲間、そして親友であるマナにさえ姿を見せたくないとしていることを知った。それでもある日、マナに会いたいという内容を含んだ本人直筆の手紙が舞い込む。マナとマシロの再会の時がすぐそこに迫っていたが、直前になってマシロの容態が急変。一命は取り留めたが再会は延期となる。

  

長野駅に戻ってきた。マシロに会える、なんて意気揚々と出発した頃の笑顔はもう残っていない。というのも、電車の中で久しぶりに池上から連絡があり、マシロの病状を詳らかに知ってしまったのである。

  

今日意識が無くなったのは、悪いものが脳に転移し始めた兆候の可能性がある、と医師から説明がありました。まだ初期段階のため、手術で対応はできそうですが、病気は確実に進行しています。骨髄移植に一縷の望みを託せれば、と思うのですが、家族でドナー適合する人はおらず……

  

タテルの胸の中で、不安を封じ込める心の蓋が大きく揺れ出した。弱音を吐いちゃダメだ、と言い聞かせても絶望感のヘドロが沸々と蓋を刺激する。

  

それでも酒と食事を楽しむのがタテルのやり方。店へと歩みを進める。駅から少し北に行くと大きな駐車場があり、それを通り抜けた先の路地に予約していた蕎麦居酒屋がある。夫婦2人のみで営業、客は5,6組とこじんまりとした店であり、予約無しでの入店は不可能と思った方が良い。その予約も18:30が最終入店時刻である。

  

靴を脱いで上がりカウンター席へ。タテルはメニューをある程度予習していて、猪の網焼きを絶対に食うと決めていた。
「猪の肉ですか。ちょっと抵抗あります」
「大丈夫だよ。豚の仲間だ、豚肉感覚で食えるさ」
「タテルさんが食べたければどうぞ。私は野沢菜でも摘んでおこうかな」

  

乾杯酒には長野県限定販売のマルスウイスキー「信州」ハイボールを注文した。濃いめとまではいかないが、林檎のようなスッキリとした味わいで喉を潤す。

  

野沢菜漬け。醤油漬けのようだがこれがかなり塩辛い。鰹節の旨味もただのダメ押しである。野沢菜漬けとはそういうものなのか。減塩運動が叫ばれる前の食い物のようである。
「でもマシロは薄味好きでしたよ。野菜にあまりドレッシングかけない派で」
「減塩運動の前の世代はドバドバ塩分摂るんだろうね。野沢菜漬けに醤油かける人もいるらしい」
「エグっ。クリームシチューにマヨネーズかけるみたいな」
「流石マナ、ナイス喩えツッコミだ」

  

お通しとしてもつ煮。こちらは一転薄めの出汁であり、もつも素材の味に近い。やわやわとした弾力がある。

  

楽しく食事をしようとは意気込んだものの、後悔の念が溢れ出すマナ。素材原理主義を貫き粗食を心がける健康体マシロが活動を休みがちになった卒業2ヶ月前。月に3回ほど風邪を引き、回復にも時間がかかる。無尽蔵のスタミナが要求されるライヴには参加できず、グループの冠番組にも体調の波が合わずなかなか出演できなかった。元々一部の過激派ファンや外野の説教おじさんから酷い誹謗中傷を受けていたマシロであったが、この状況下ではそれらは更に苛烈なものとなる。

  

アイツ逃げやがったな。プロとして失格やな。
あのぶりっ子不快なんだよね。空気読めって感じ。消えてせいせいする!
さっさと卒業しろよ。仕事なめんなアイドルなめんな。

  

ある日、漸く体調が落ち着いてきたマシロは音楽番組にDIVerseとして出演し『ZUN』『Smile and Smile』の2曲を披露した。楽屋ではいつも通りメンバーと仲良く歓談しながら振りを確認する。
「体調大丈夫?」
「少し良くなってきた。心労だったのかな。結構酷い言われようだったから」
「あれは本当に酷い。運営が対処してくれるらしいけど」
「じゃあ安心だね。もう大丈夫、次のシングルからは元気いっぱいにゴホゴホ……」
「大丈夫?」
「大丈夫。テレビでスマスマ踊るなんて貴重な機会だもん。休む訳にはいかないでしょ」

  

マシロは嘘をついていた。明らかに体調は最悪であり、後にわかったことだがこの時点で大病院を受診し検査を受けていたと云う。しかしいくら親しい仲とはいえ病気のことについて踏み込むのは、本人が大丈夫と言い張る以上躊躇われるものであった。結局これがマシロ最後のパフォーマンスとなり、2日後には活動休止を発表、さらにその1ヶ月後に、病気のことは隠して卒業発表をした。

  

タテルは日本酒を注文していた。信濃の地酒は甘いものが多い、と思っていたがこの店に揃う地酒は辛口に偏っている。まずは十九特別純米。スカッと爽快な口当たりの中から辛口が溢れ出す。

  

「あの時もっと寄り添えれば、マシロは病気を治してアイドルに戻れたのかな……」
「どうだろうね。俺だったらしつこく病気の可能性を主張しちゃうと思う。グループに籍を置いたままゆっくり治して、元気になったら活動再開しよう、って言うかな」
「多少無理でもその方が良かったのかな。最大の失敗だったかもしれない……」

  

タテル待望の、猪肉の網焼き。予想通り筋肉質ではあるが豚肉のような感覚で脂も美味しくいただける。黒胡椒で焼いているので臭みも抑え込み素直に美味い、のだがやはり塩気が強い。新鮮なレタスを以てしても抑えきれず、こっちはこっちで生活習慣病の心配をしたくなるタテル。

  

「良くない良くない、前向きに考えないと。マシロが病魔に打ち勝った暁には何したい?」
「まずは旅行ですかね。あと、もしマシロが県内に残るなら、私も長野に移住しようと思います」
「素敵じゃないか」
「今からでも移住したいくらいです」
「本人の意思次第だけど、アイドルに復帰してほしいな。期間限定とかでいいから」
「観たいですねそれも」
「ふるさとフェスの第3弾、長野でやろうかな。名前は『しなのフェス』とか」
「あきたフェスの続編ですか?あれ、第2弾は?」
「開催地は決まりつつある。メンバーには年明けに発表する予定だけど、たぶん西日本になる」
「じゃあいちファンとして、観に行きますね。で再来年は信濃か」
「松本、軽井沢、竜王、小布施と様々な場所を旅してきて、長野県の魅力がどかんどかんと心に入ってきた。フェスをやる心構えはできてる。そこにマシロをサプライズ登場させたら、県民は喜ぶんじゃないかな」
「理想的すぎます。実現できたら嬉しいですね」
「そのためにもまずはマシロに元気になってもらう。俺らは信じるしかない」

  

旨口と謳われているものから、小布施の豊賀。とは言いつつもフルーティな類のものではなく、素材の味を邪魔しない主張控えめな日本酒である。

  

〆の蕎麦もせっかくなので網焼き地鴨を使った鴨せいろにしてもらった。今度こそ塩辛くないつゆに浸った焼き鴨はそれ単体で堂に入った味。

  

蕎麦は見るからに野生みが強いが、詳細な味は酔いが回って分析できていない。鴨せいろとしての一体感というよりは、とにかく鴨が美味しいという印象であった。

  

最後に焼酎で〆るタテル。食べたい飲みたい物を糸目つけず頼んだため、タテルの会計は1万円を超えてしまった。今回は塩辛さに気を取られてしまったが、猪や鴨の良さは確かなものである。今度は昼に来て、じっくり蕎麦を味わってみようと誓う。
「しなのフェスのこと考えたら、なんか前向きになれた気がします」
「俺もだ。一時は不安が溢れ出しそうだったけど、マシロが元気になった先の未来を考えたら、後ろなんて向いてられねえよ」

  

軽井沢からの帰りとは違い、希望を抱いて帰京する2人であった。

  

「このまま進行しますと、神経障害による左半身の麻痺、言語障害、そして記憶障害が発生する虞があります」
「記憶……」

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