連続百名店小説『老婆の診療所』CASE 9(ヴェッキオ コンヴェンティーノ/大袋・せんげん台)

埼玉県越谷市まんげん台、独協学園の近くにある、新米医師の美玖とその母・由佳、祖母のタケの3世代で営むクリニック「金山診療所」。タケは凄腕の医師で理解ある患者からの信頼は厚いが、一癖も二癖もあるため評判が芳しくない。
一方、美玖の幼馴染で、国家公務員として厚生労働省で働く能勢建。彼も医者を目指していたが医学部受験に失敗し別の道を歩まざるを得なかった。

  

建にはこれ以上失うものが無かった。公権力こそ失ったが、何の柵も無く金山診療所を潰すことができる。どう潰してやろうか、朝も昼も夜もネットを漁り構想を練りシミュレーションを行う。

  

一方タケのドッキリが果てた後の金山家。由佳に生じた胸のかぶれが炎症性乳癌によるものであることを、タケは分かっていた。乳癌といえば触診でしこりを認めることにより比較的早期発見及び根治が期待できるものであるが、炎症性ともなると話は別。乳腺炎などとの区別がつきにくい上進行が極めて速いため、早期発見して完治、という理想論を語る余地は殆ど無いのである。

  

翌日、タケは美玖を呼び出した。
「美玖、お母さんは先が長くない。もう一緒に年を越すこともできないだろうね」
「おばあちゃん、実は私もそう思っていた。病院実習の時出会った症例に似ていて。あの胸の腫れ、熱感、そういうことなんだなって分かっていた」
「美玖も勘づいていたのかい。もうショックで何も手につかないよ」
2人の気持ちが落ち着くまで、金山診療所は暫くの間休診となった。

  

建は大袋とせんげん台の中間にある、地元で一番のイタリアン「ヴェッキオ コンヴェンティーノ」を訪れる。前々から気にはなっていたものの、忙しくて行くことができないでいた。キャンセルが立て込み、客は建ただ1人のディナータイム。ワンオペのシェフと1対1になり、人見知りの建は緊張気味であった。

  

メニューはおまかせコース8800円のみで、ドリンクはワインペアリング6200円を注文した。合わせて1.5万円という明朗会計。少量多皿という情報だけ仕入れ、どういう料理と出会えるかはお楽しみにしていた。

  

ミモザみたいな食前酒と共に宴が始まる。

  

安納芋とスペイン産生ハム。芋も生ハムも上質な素材。合わさって何か生まれる、というのは無かったが期待の持てる入りである。

  

「お仕事終わりですか?」シェフが問い掛ける。
「いえ、つい最近辞めて今は転職活動中です」
「そうでしたか」
「残業続きでまともな飯食えてなかったので、今晩はとても楽しみです」

  

ヒトミワイナリーの微発泡ワイン。この店のワインはビオが中心である。人によっては苦手かもしれないが、デラウェアの画がはっと頭に浮かぶ素直な果実味である。

  

黒キャベツ、岩槻冬瓜の食べるスープに千葉産穴子の白焼を載せて。野菜の甘みが存分に出ており、黒キャベツの味がアクセントとなる。穴子もしっかり旨味を感じられる。

  

「どちらへお勤めだったんですか?」
「厚労省です」
「国家公務員でしたか。それは御立派で」
「でも身が保たないです。法案の作成が立て込んだり、深夜にまで及ぶ国会対応、息つく暇がありません」
「大変そう」
「大臣や議員に政策や法案の説明するんですけど全然理解してくれなくて。こっちはプライベート犠牲にして頑張っているのに、何故怒られなければならないのか」
「わかってもらえないの辛いですよね」

  

ドイツの白ワインに合わせて、旬のカワハギ肝和えに、岩槻カリフラワー・ルッコラ・紅唇大根など野菜をてんこ盛り。肝和えにすることにより、淡白になりがちな生の白身魚でも満足感が生まれる。多種多様な野菜を楽しめるのも高級料理の醍醐味である。

  

「食べ歩きとか趣味なんですか?」
「はい、学生時代は時間に余裕があったので色んな店行ってました」
「どういったところへ?」
「フレンチが多いですね。ひらまつとか」
「有名どころですね」
「イタリアンだとリストランテヒロとか」
「そうなんですね。私あまりイタリアンの店行かないんです。似たような味の店が多いんで。あ、でもウシマルは行きますよ」
「ウシマル!僕も行きました。千葉の田舎にある」
「そうですそうです」

  

真鯛、日高の舞茸、菜の花のようなイタリア野菜。ゆずも散らしてあり、出汁の旨味も相まって完全に日本料理。合わせる酒もそれは日本酒になる。

  

言われてみればこの店はウシマルと重なる。従来のコース料理の概念を覆す少量多皿、どちらかというと肉より海鮮、ワインペアリングも多種多様で量もある。それでいて予算はウシマルの半分強、アクセスも断然こちらの方が良い。
「1品1品手が込んでいて良いですね。気軽に来れるし最高です」
「ありがとうございます」
「何だか悪いですね、たった1人のためにこれだけ用意してもらって」
「いえいえ。この頃冷えてきていますから、体調管理気をつけてください」

  

いちごのようなロゼに合わせ、鱈の白子、岩槻ちぢみほうれん草、臭い強めのチーズ。クリームコロッケをイメージし外側をしっかり焼いた白子。クセを排除し、チーズの力も借りて濃厚さを前面に押し出す。どう考えても美味しい逸品である。

  

「お住まいはこの辺で?」
「はい、まんげん台です。生まれも育ちもずっと」
「そうなんですね」
「中学・高校と独協埼玉で」
「あら、もう完全に越谷っ子ですね」

  

昔ながらの手法で作られた山形赤湯の名子山。フランスワインにも引けを取らない重厚感を持つ。

  

とちぎ和牛のロールキャベツは、キャベツより和牛を楽しむ一皿。水分量は少なめだが身の質が良いので苦にならない。つなぎとして海老が使われていて、海老の味が殆ど無いというのも面白い。

  

「どうして公務員になろうと思ったのですか?」
「実はですね、本当は医者になりたかったんです」
「医者ですか…」
「独協大学医学部の受験に失敗して、浪人できるような経済状況でも無かったので後期で国立の生物学科に入りました」
「あらら…医学部受験って難しいですもんね」
「そうなんですよ。厳しい制限時間の中で多くの問題を捌かなければならなくて。問題の難易度自体はすごい難しい訳ではないから、取りこぼしが致命的なんです」
「勉強とか結構なされたんですか?」
「はい。1人でやるのは辛かったので、幼馴染で同じく医者目指してた子と一緒に勉強して」
「その子は受かったんですか?」
「はい。良くも悪くも有名な金山診療所のところのお子さんで、受験終わってから全然会ってないんです。今どうされてるのか…」
「金山さんならよくいらしてますよ」
「本当ですか⁈」
「今は3世代で回しているみたいですね」
「え、じゃあ美玖さんも…」
「現役医師です」
「そうなんだ…いいなぁ美玖は」

  

そろそろ酔いが回り、腹も少しずつ満たされてきた。次に登場したのはヤリイカと黒ムツの載ったイカ墨リゾット。黒ムツは少し火が入り過ぎたように感じた一方、イカの身が厚くたっぷり入っていて食べ応えもある。イカ墨リゾットの味つけは何の文句もない。

  

タケのことは恨んでいた建であったが、美玖の近況を聞きかつての関係性に戻りたいという気持ちが少しだけ芽生えた。この時点で建は診療所襲撃の計画を固めていたが迷いが生じ、その心の揺れが動悸となって現れた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です。すぐ治まるので!」

  

少し休憩を挟み、しっかりした赤ワインに合わせ真打の肉料理。鳥取万葉牛のランプ肉。肉の良さをそのまま楽しんでほしいから味付けは最小限。その狙い通り、程よい脂加減がいい味を醸し出す。和牛はどうしてもすぐ口の中で無くなって脂がしつこく感じやすいものだから、これくらいが丁度良いよな、なんて感心してしまう。

  

「そういえば、由佳さん最近入院されたみたいです」
「えっ?何か病気で?」
「どうやら癌らしいです。タケさんも美玖さんも少し気落ちされているようで、診療所も休んでいるみたいです」
「そんな…」
建の思い描いていたプランは悉く崩れ落ちた。再び動悸に胸を締め付けられる。
「能勢様、今日はお帰りになった方が…お代も差し引きますから」
「いえいえ、最後まで楽しませてください。〆のパスタとデザートで落ち着きますから」
「そうですか…」

  

桜海老とジロール茸のパスタ。少し太めの麺に桜海老の旨味と茸の香りが絡む。シンプルな調味だからこそ麺の食感も楽しめる。少量多皿イタリアンの醍醐味である。

  

デザートはパンナコッタにジャンドゥーヤとチョコレートのアイス、そしてルレクチェの果実も入れてある。ジャンドゥーヤがとにかく美味しく、洋梨との相性の良さもよく心得ている。宣言通り建の心は落ち着いていた。

  

最後の飲物は、岩槻のLogiConnecTeaから仕入れた紅茶か、西新井のBlack Sloth Coffeeから仕入れたコーヒーを選択。どちらも世間的には無名であるが気鋭の良店である。

  

「これは良い店見つけました。気軽に来れるウシマル、って感じでコスパ最強です」
「ぜひ季節毎に訪れてください」
「はい。ありがとうございます」

  

以降建は来る日も来る日も金山診療所の前を通りかかっては様子を見る。1ヶ月後、ようやく診療が再開されたことを知った。美玖との関係性は取り戻したかったし、由佳が大病を患ったのも残念に思う。それでもやはりタケへの怒りの気持ちの方が強かった。愈々建はガソリンとライターを手に金山診療所へ侵入する。

  

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