独立をする場合、指定された15種類のパンを一から作る試験が課される。それぞれA(優)からD(不可)の4段階評価が緑川によりなされ、A評価を10個以上獲得し尚且つC評価を2個以下、D評価を0個に抑えたら合格となる。A評価を出す基準がかなり厳しく、大半の志願者がA評価10個を満たさず終わる。一発で通った人は、20年の歴史上ただ1人であり、中には10回以上挑んで未だに合格できないおっさんもいる。梨木も独立してカレーパン専門店を開こうとしているのに、関係ないパン作りに苦闘させられ未だ試験に合格できていない。
緑川は日欧パン普及協議会の重役に就いており、試験に合格しないまま独立開業をしようものなら圧力をかけられてしまう。そのため勝手な真似はできず、愚直に試験合格を目指すしかない。建の場合、愛着のあるバゲットとクロワッサンはA評価を勝ち取れる保証があったが、カンパーニュやライ麦パン、ヴィエノワズリーに関しては研鑽が足りていない。美澪は幅広く丁寧に仕事していて、次に抜け出せるのは彼女だろう、と仲間内では言われていた。2人は業後も練習に明け暮れ、一方でお互い集まって好きなパンを愉しむことも増えていた。
ある土曜の夕方には松陰神社前のスドウを訪れていた。
「いっぱい買っちゃったね」
「美味しそうだったからつい。本当はデニッシュ買いたかったけど」
「仕方ないよ。名物だからすぐ売り切れちゃう」
建が美澪の豪邸に出向くこともあるが、基本は美澪が建の狭いワンルームに行きたがる。快適な暮らしよりも、建と近距離で居られることの方が幸せ、と美澪は言う。

まずは課題のパンにもなっているクロックムッシュ。カルボナーラみたいな濃い味付けである。大山ハムの輪郭もくっきりしていて、パンの耳の食感と交わる。
クロックムッシュには緑川顔負けの拘りを見せる建。コクがありつつミルキーでさっぱりした一面が出るようにチーズとホワイトソースを配合する。ハムは建の地元滋賀県のものを使用。フランコとスドウの大山ハムクロックムッシュを分析しながら何度も試作を重ねている。

一方の美澪はソーセージフランスを得意としていたが、粒マスタードではないヴァリエーションをやろうと考えていた。その参考としてこの店のトマトソーセージフォカッチャを購入。大きめの具材を、ハーバルでスパイシーなソースが纏め上げる。
「あっ、こぼしちゃった!建くんのカーペットが……」
「大丈夫っすよ美澪さん。こんな具材てんこ盛りにしたらそうなりますって」
食べ応え満点ではあるが具材が溢れやすいこのパン。美澪であれば伝統的なソーセージフランスを作る工程においてチリソースやトマトを閉じ込め、手を汚さず持てるが中身はジューシーで旨みたっぷりな物に仕立てると云う。建のクロックムッシュと美澪のチリソーセージフランスが店の看板になっていて、1つ500円で腹を満たせるからと駒大生が昼休みに大挙してそれらを買い漁っている未来が2人には見えていた。ジブリ映画に出てくるような小さなブーランジェリー。大学生からマダム、ベビーカーを押す家族まで幅広い層のお客さんがそこに集まる。

そうなるとカレーパンに関してひとつアイデアを得る。スドウのカレーパンにはマッシュポテトが入っていて、ただでさえ美味いカレーに円やかさも加わった絶品である。辛いものが苦手な人にも、カレーに一家言がある人も満足であろう。これを真似して、建はカレーパンにマッシュポテトを入れ込むことを考えた。
「バゲット、ジャンボンフロマージュ、フランボワーズのタルティーヌ、クロワッサン、ハムチーズクロワッサン、アリゴ、クロックムッシュ、カレーパン。沢山のパンを仕上げてきたものだ」
「プレッツェル、ライ麦を使ったパン、ビール酵母のバゲット、3種のソーセージフランス。私もいっぱいパンを作れるようになった。自分達の作ったパンが店に並ぶ画を思い浮かべると、試験頑張ろうって思える」
「俺はエピとチェリーデニッシュが上手く作れるかだな。美澪さんは不安な科目ある?」
「強いて言うなら私もエピが不安。あと食パンも。でも大丈夫、私たち何度もパン作ってきたもんね。認めてもらえるよね」
「ああ。美澪さんの真摯な姿勢は認められて然るべきだ」
「建くんもね。あのバゲットは天下一品だよ。みんな虜になっちゃう」

発酵クリームとバジルのフォカッチャ。シンプルではあるが、チーズとは違った発酵感にバジルがよく合い酒も案出しも進む。
小さいパン屋でも動線にはゆとりを持たせ、外に行列を延ばして近隣に迷惑をかけることの無いようにする。世田谷代田のトロのようにトトロを飾りジブリっぽいブーランジェリーとする。黒褐色の木の壁、アールデコの床、香ばしいパンの匂い。
店を入って左手には建のバゲットサンド、クロックムッシュ等フランス属性のパン。右手には美澪のプレッツェル、ライ麦パン等ドイツ属性のパン。奥にはホットスナック用ケースに入ったカレーパン、2人の共同作品としてバゲットやクロワッサンの仏独食べ比べセット、パン・オ・フリュイの量り売り。学生には割引をしてあげて、よく店を訪れる客にはポイントカードで還元する。
そんなブーランジェリーを数年営んだ後、建は滋賀に戻り近江パンを継ぐ。そこに美澪が合流するか、はたまた2店舗を同時に運営するか。おっと、それを考えるのは時期尚早だ。先ずは3ヶ月に設定した試験に合格しなければならない。

「試験に向けてこの半年は特に頑張った」
「寝る間も惜しんで研究したもんね。大丈夫だよ」
「2人で合格しよう。春になったら、夢のブーランジェリー開業だ」
「来るお客さんみんな、笑顔にしちゃうんだから!」
しらすの濃い味と胡麻の香ばしさが絶品のパンを食べながら夢を語る2人。
食べ終わると、美澪は疲れていたのか、建の方に寄りかかって眠ってしまった。冷房にあたって風邪を引いてはいけないと、建は近くにあったブランケットを美澪にかけて寝かしてあげた。
「あ、いつの間に寝てたんだろう……」
「お疲れ様です美澪さん。夜遅くなっちゃいましたね。ここから出勤します?」
「どうしようかな」
少し考えて美澪は、やはり一旦家に帰ることにした。建も美澪の意思を尊重して、配車アプリでタクシーを呼び美澪を帰らせた。でも内心では一夜を共にしたかったとのことである。
その後も一生懸命パン作りに励み、愈々試験の日。休業日を利用して午前中が建の、午後が美澪の試験である。漸く試験に受かり独立した梨木もカレーパンを提げて店を訪れ様子を見守る。
建は自信を持って得意のバゲットとクロワッサンを仕上げる。
「入ってきた時とはえらい違いだ。バゲットの気泡潰すなんて卦体なことしてた時代が懐かしいなぁおい」
緑川の煽りなど無視して、愛着の無いパンも愛情込めて仕上げる。15品全てが見た目上は美しく焼き上がった。緑川は虎のような目つきでそれらを試食する。
「驚いたよ。まさか君がこんなに美味いパンを作るとは。A評価13個、B評価2個で文句無しの合格だ」
「えっ……嬉しいです!」
「俺の教えを守りつつ自分の信じる道を進んでパンを作っている。令和の世には珍しく、そして尊ばれるべきパン職人だ。胸を張って独立しなさい」
こうして建は緑川の資金援助を受け自分の店を開業する権利を得た。
次は美澪の番なのだが、やけに緊張していて、精悍な顔つきで生地を捏ねる。その顔もまた映える美人であるから建は見惚れていたが、他の仲間はいつもと違う様子であると不安そうに見つめていた。
綺麗に焼き上がった美澪のパン。それを手に取った緑川は、なるほどね、とだけ言いながら貪った。
「やっぱり君は真面目にパンに向き合っただけある。洗練されているね。さすが俺の選んだ娘だ。A評価は3品…」
合格ラインのA評価10品に遠く及ばず、この時点で不合格が確定した。重い空気に包まれるDernier Mot。
「D評価が2品。ソーセージパンとクロワッサン。どういうことかねこれ」
「どちらも自信作です!ソーセージパンはヴォリューム満点で大学生のお腹を満たせるように、クロワッサンはバター控えめでお年寄りの方が食べやすいように…」
「君は優しすぎるんだよ。客のことばっか考えてできるパンなんて邪道もいいとこだ!」
緑川の指摘に閉口する美澪。今にも泣き出しそうな顔で、緑川の扱きに耐える。
「ソーセージパンは要素が多くて何食べさせたいのかわからない。そしてバターの少ないクロワッサンはただ味気ない。口の中がパサついて仕方ないんだ!君は我を出すと失敗するタイプだ。一生俺の下で俺の言う通りにパンを捏ねろ。勝手に道を外れて変なパン売られたら困るんだ。日本のパン業界を牛耳る俺の顔に泥を塗る気かい?」
「そんな……そんなつもりはないです!」
「性格はそう簡単には変わらないからね。君1人の力で本物のパンは作れないこと、自覚しましょうねお嬢さん?」
「もういやあぁ!」
心を完全に打ち砕かれた美澪は、何も言わず店の外に出て行ってしまった。