連続百名店小説『世田谷パンストーリー』épisode 5(ジャン フランコ/用賀)

正社員の美澪が週6日働く一方で、建は大学の授業があるため週4日、午前中だけの勤務としている。それでも向学心は旺盛であり、緑川の苛烈な物言いを半ばいなしながらバゲットとクロワッサン作りに勤しむ。
「狂ったようにバゲット作ってやがる。今日からお前のことはバゲットファントムと呼ぶ」
「ファントムは『おばけ』……お洒落な渾名、ありがとうございます!」
「ああそうかい、良かったな!バゲファン、パンドミ作るぞ!」
「パンドミって食パンですよね。全然売れてないじゃないですか」
「何てこと言うんだ。求めてる人もいるんだ、作れ早く!」
「はいはい、わかりましたよ」

  

体力仕事ではあるが、それが身になる可能性を感じて心地良い疲れを覚える建。深夜に出勤して10時まで勤務、講義があれば出席はするが後ろの席で居眠りをする。講義が無ければ家に直帰してやはり仮眠をとる。起きたら昼食としてパンに挟む具材の研究に勤しみ、すっかりパン職人の顔になった建。

  

「父さん、俺やっぱり近江パンを継ごうかな」
「おっ、やっとその気になってくれたか。じゃあ今度の3連休帰ってこい、基本教えてやっから」
「それは要らない。世田谷のパン屋で学んでるから」
「大学の授業は大丈夫なのか?」
「アルバイトだよ。ものすごく本格的なパン屋。バゲットが美味くてさ」
「バゲット?あんな硬いものが美味いのか」
「美味いんだって。すっかりバゲットとクロワッサンに取り憑かれちゃってさ、だから俺はそういうパンしか作りたくない」
「いやいや、クロワッサンはまだしもバゲットなんて買う人いないでしょ」
「具材挟んだりジャム塗ったりとか趣向凝らして」
「年寄りばっかだよ客は。硬いものは噛めない。クロワッサンもバターたっぷりでしょ?胃もたれするやろ」
「俺は遠方から態々来てもらえるような店をやりたい。質の高い本格志向のパン屋をやりたい」
「認めんぞ俺は。本場流なんて大半の日本人には合わない。況してや田舎だぞここは」
「認めないなら店は継がない。このまま世田谷で店を出す」
「厳しいやろそりゃ。本場で修業した人に敵うと思うのかい?うち継いだ方が気楽やって。温かみもあるし、唯一無二のパンが作れるぞ」
「父さんの唯一無二、俺は嫌なんだよ!」
「おい、今何て言った⁈」
「嫌なんだよ、父さんの作るパン。生地が雑で具材は味が妙に濃い。大量の売れ残りを押し付けといて、何が温かみだよ!」
「それが親に対する口の利き方か!」

  

建は乱暴に電話を切ってしまった。間も無く冷静になると、何て酷いことを言ってしまったのだろう、と後悔の念に苛まれる。しかしバゲットで勝負するという信念を今更曲げる訳にもいかない。

  

翌日の夕方、美澪は建を家に誘う。もはや週に1回の恒例行事となっている逢瀬である。

  

美澪は退勤後用賀に立ち寄り、イタリア志向のパンの名店「ジャン・フランコ」で食事系のパンを買い込んでいた。庭のテーブルに座り、ロデレールのシャンパーニュを開け、気分は宛らパリジャンである。
「建くんがパンに合う具材を研究してる、って聞いたから、食事系が充実したお店に行ってきました!」
「ありがたい。腹も減ってたし楽しみだ」

  

最初に手に取ったのはクロックムッシュ。全粒粉のパンに大山ハムとチーズを挟み、表面にはホワイトソースを塗ってある。兎に角チーズが濃厚な味わいで虜にさせられる。
「チーズとハム。やっぱ先ずはこれだよね」
「カフェでクロックムッシュを食べたり、本を片手にジャンボンフロマージュ食べたり。フランスの人は軽めのランチとしてそういう物を食べるんだって。建くんには物足りなさそうだね」
「侮るなよ。俺は胃の容量を自在に操れる」
「それはスゴい特技だね」
「やるからにはチーズにもシャルキュトリにも拘りたい。全国巡って色々試すか」
「建くんの好奇心は素晴らしいね。尊敬しちゃう」
「照れるよ……」
「日本一のバゲット職人も夢じゃないね」
「そうであれば良いけどな」

  

バジルソースと肉を挟んだサンドは、バジルの味が強く肉を打ち負かしていた。
「父さんに店を継ぐ意思、伝えたんだ」
「いいじゃん。喜んでくれた?」
「それが全然。バゲットやりたい、とか言ったらもうもう猛反発。柔らかくて日本人が親しみやすいもの作れ、コロッケパンとか焼きそばパンとか」
「そんなパンがあるんだ」
「あ、もしかして知らない?無理ないよね、美澪さんは本場志向だから」

  

粗挽きソーセージを包んだ「サルシッチャ」という名のパン。太いソーセージの塩気が生地の香と調和した理想形である。
「これならまだ親しみやすそうだけどね」
「でもソーセージに拘りだすと、たこさんウインナーで良いだろ、とか言われるんだよな」
「たこさんウインナー?」
「そっか、それも知らないのか」
「ウインナーならわかるけど食べないかな。家だとソーセージはハーブの入ったものが出てくる」
「贅沢な。本場ドイツ志向だ」
「あそうそう、建くんはフランスへの思いが強いようだけど、ドイツパンも美味しいよ。店では出してないけど、プレッツェルが好きなんだよね私」
「ああ、カッチカチで、けど塩気とかあって美味いやつか」
「そうなの。だから私も作ってお客さんに振る舞いたいんだけどね、フランス系の店だから合わない、って緑川さんに言われてて」
「それは歯痒いね。ちょっとくらい置いてもいいのに」
「だから私も密かに研究しているの。国境越えてでも出したいと緑川さんに思ってもらえるくらい美味しいもの作るんだ」
優しくも芯のある美澪の、まるで世界平和を願うような発言に、建は感銘を受けた。

  

ピッツァ風のパン。時間が経ったことによりアンチョビの磯臭さが出てしまったか。生地自体はモチモチしつつ気泡も入って心地良い食感になっている。

  

イタリア系のパンを食べ、ドイツ系のパンへの想いを語る美澪に触れたことにより、建が美澪と営みたいパン屋のイメージが更新された。西欧諸国のパンを等しく扱うボーダレス型の店舗である。建はバゲットに注力しつつ、サンドのヴァリエーションとしてトマトやバジルを使ったイタリア要素を取り入れる。美澪はプレッツェルやライ麦パンなどドイツパンに注力する。イタリア風の自家製シャルキュトリを合わせても面白そうだ。そしてクロワッサンを、バターたっぷりフランススタイルと控えめドイツスタイルで食べ比べさせる。などと妄想は膨らむのだが、前提である美澪へのラヴコールを送る勇気が未だ湧かない。

  

「建くんの作るバゲット、親御さんに食べてほしいな。そう伝えてみたらどう?」
「実はね、強い言葉で喧嘩しちゃって。今更電話しても、空気が重くなるだけだろうな……」
「してみたらいいんじゃない?今」
「今?」
「想いはちゃんと伝えた方が良いと思うよ。折角バゲットに真剣に向き合っているのに、作れなくなるのは勿体無いでしょ?」
「そうだけど……」
「安心して、私がついているから!」

  

父に電話をする建。開口一番謝罪の弁を述べるも、父の機嫌を取り戻すことはできない。
「母さんがどれだけショック受けたか。電話口で謝られても納得いかんよ!」
「あのな!……」

  

美澪が無言で窘める。建は吐きかけた言葉を留め父の攻撃に耐える。
「東京の冷たい風に染まって、薄情な人間になってしもうたな。今度の休み帰ってこい、曲がった心叩き直してやるよ」
「待ってよ。自分は兎に角本格的なバゲットを作りたい。でないと自分の中で納得できないんだ」
「継ぐまでは俺の店や。俺が決める。俺が退いても変わらずやっていくって、常連さんにも伝えてしもうたんや」
「話が早すぎる。兎に角俺はバゲットやりたい。外パリ中ジュワのクロワッサン作りたい。じゃないと俺はモチベが湧かない。パン屋を潰すことになる」
「脅しか?乗るかそんなもん」
「一度食べてくれ。そしたらわかるから」
「俺総入れ歯やねん。バゲットなんて食えへんわ」

  

膠着状態の建とその父。すると美澪が電話に出たがる素振りを見せてきた。建は美澪にスマホを渡す。
「お電話代わりました。建さんの職場の上司?いや、それ以上の関係はあるかもしれません、木村美澪と申します」
「あ、はい、え?」
「建さん、毎日一生懸命バゲット作っているんですよ。最初は気泡潰して怒られたりしていましたけど、あっという間に作り方心得て、今や自分なりのバゲットを日々研究する段階まで来たんです!」
「いや、まあそれはすごいとは思いますけどね、でも…」
「クロワッサンもすごく綺麗に焼けていて、もう天才さんですよ!この才能活かさないなんて勿体無いです!」
「あ、その、え、しんきんか…」
「美味しく食べられるように具材の研究まで日夜しているんです。一度建さんの作るパン、お試しになられたらどうでしょう?」
「そ、そうですね。試して……みます」

  

美澪のペースに完全に呑まれた建の父。ひとまず建の進む道を応援する方向で話をつけることに成功した。
「ありがとうございます美澪さん!助かりました……」
「まったく、もっと素直に伝えたら良かったのに」
「お手数をおかけして申し訳ない」
「親御さんに満足してもらえるバゲット作るんだよ。夢への第一歩、しっかりね!」

  

デザートパンにマロンパイ。

中にはマッシュしたマロンペーストが入っており、栗の味がよくわかる。

  

フランスパンとドイツパンの両方で作ることのできるパンがもう1つあることに気付いた建。大きいパンにフルーツやナッツ等をたっぷり含ませて焼き上げるパン・オ・フリュイである。

  

「美澪さん!俺、美澪さんと店やりたい!……あっ、言ってしまった!」
「建くんと店を?やりたいね!」
「えっ、本当に?」
「勿論だよ。プレッツェルも出して良い?」
「ウェルカムです!独仏ハイブリッド型を考えていて」
「面白いじゃんそれ!本気で考えてみようそれ」
「良かった喜んでもらえて……想いをちゃんと伝えるって、やっぱ大事なことなんだな」

  

こうして2人はパン屋開業の夢を明確にすると共に、お付き合いを始める運びとなった。

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