連続百名店小説『世田谷パンストーリー』épisode 4(ボネダンヌ/三軒茶屋・池尻大橋)

朝2時過ぎ、美澪と共にパン屋「Dernier Mot」に出勤した建は寝ぼけ眼を擦りながら生地を練る。専門学校に通っていない建は店主の緑川からビシバシ指導され、苦痛ではあるが手に職をつけるため、そして美澪に喜んでもらうため必死でついていく。

  

世田谷の民が最も好むであろうパンは、本場フランスらしくバゲットである。建の実家では、買いに来る人は年寄りばかりで硬い物は噛めないからと、バゲットなどというものは一切作られていなかった。だから建は上京してからも柔らかめのパンを選り好みしており、バゲットに正面から向き合うのはこれが初めてであった。

  

生地を延ばす際、建は強く押し潰してしまい緑川から大目玉を食らう。
「お前本当何もわかってないな。気泡潰したらカチンコチンになって食えねぇだろ!」
「すみません……」
「バゲットはフランス人の命だ。それを冒涜する奴は去れ。まったく、オーナーもとんだ野郎を引き入れたな」

  

落ち込んだ建は裏口を出たところでしゃがみ込んでいた。何をやっても怒られてばかり、やっぱり自分には一流のパン職人なんて無理だ、このまま逃げ出そう。服を脱いで畳もうとしていたところへ美澪が駆けつけた。
「建くん、怒られて辛かったね」
「美澪さん……あいや、ちょっと暑くて脱いだだけですこれは!」
「取り繕わなくていいのよ。怖いでしょ緑川さん」
「こわ……いです」
「大丈夫、そのうち慣れるよ。却ってあの大声が無いと寂しくなるくらい」
「いやあ、怒鳴られるのは良い気しないです」
「緑川さんも貶したい訳じゃないからね。信頼関係築けば大丈夫。今日は大学の授業あるの?」
「2限だけです」
「はいこれ、バゲットサンドの名店。授業終わったら買ってきて。私今日は午前上がりだから、買ったら私の家に集合ね!」
「え、ちょっと…」
「はい決まり!しょげないで、一緒に頑張ろう!」
美澪の奔放だが前向きな振る舞いに、建は従わざるを得なかった。

  

美澪の提示したパン屋は三宿にあるボネダンヌ。三軒茶屋駅と池尻大橋駅の中間であり、246からも少し北に離れていて最寄りバス停からも遠い。自転車が役に立つような立地と言えよう。それでも多くの客が訪れていて狭い店内を埋め尽くす。

  

この店の名物は、注文と同時に作られるサンドウィッチとタルティーヌ。合わせて6種類あって、4番(カンパーニュのパテサンド)を除きバゲットが使用されている。売り切れるといけないため事前に取り置きを頼んでおり、甘いものを多めに、という美澪のリクエストに従って2番のジャンボン・フロマージュ、5番のタルティーヌ・フランボワーズ、6番のタルティーヌ・プラリネショコラを選択。その他にもショーケースに並んでいるパンを数点購入した。

  

サンドウィッチ・タルティーヌの完成を5分程待ち、持参していたレジ袋に自分で商品を詰めて(店が狭く窮屈な中で詰めるのは少し過酷)店を後にした。タルティーヌは具材の塗られた上面が丸出しの包装であり少し不安を覚える。美澪のシフトが終わるまで少し時間があったため、駒沢の天下一品でラーメンと豚キムチを補給してから美澪宅に向かった。

  

「あ、建くんお疲れ様。いっぱい買ってきたね」
「お腹空いてらっしゃると思ったので。美澪さんもお疲れ様です」
「あれ、これはジャム?」
「八ヶ岳産ルバーブのジャムです。働き口斡旋して下さったので、ささやかな御礼の品です」
「ありがとう。大事に食べるね」

  

早速バゲット類から食べることとする。建が買った唯一の食事系パンはジャンボン・フロマージュ。バゲットの側面に切れ込みを入れ、ハムとグリュイエールチーズを挟んだ定番のサンドウィッチである。いざかぶりついてみると、確かにバゲットは硬い。ただ内側にはしっかり気泡が入っており、柔らかさと少しの弾力により唯一無二の食感を覚える。そして気泡の空白の中に、ハムやチーズの味わいが溶け込んで一体となる。
「これがバゲットの魅力か」
「そうそう。このガチムチ食感が堪らないのよ」
「もう気泡を潰すなんて馬鹿なことはしない。お恥ずかしい限りです」

  

タルティーヌはバゲットを縦に半分に割り、断面の上に(恐らく)無塩のバターを載せる。

  

タルティーヌ・フランボワーズはその上にフランボワーズのジャムを載せて。先ずバターが美人。程良く角が残っていて上品に噛み切れる。フランボワーズの甘美な味を確と受け止め、バゲットの気泡に溶け込んでいく。ジャムとバターがぐちゃぐちゃになっている実家のパンとは大違いである。

  

一方のタルティーヌ・プラリネショコラには色紙切りのチョコチップがまぶされていて、プラリネらしさはあるがチョコのコクは感じられず平板な味わい。もう気持ち多めに塗されていれば満足感は高まる。

  

「美澪さん、お昼ご飯はこれだけですか?」
「そうだよ」
「え、じゃあもっと食事系買えば良かったですかね?」
「そんなことないわ。全然甘いもので1食済ませちゃう」
「体力仕事なのによく耐えられますね。俺なんてラーメンと炒め物食ってきましたよ」
「もしかして、朝ごはん食べてない?」
「食べてないです」
「食べた方が力出るよ」
「何食べるんですかいつも?まさかパンとか」
「ううん。かっぱえびせん」
「まさかが上回ってる!」

  

次に手に取ったパンはピスターシュ。ピスタチオの渦巻きクロワッサンである。オーブンで生地を再生させて戴く。ピスタチオのペーストが塗されており、よく感覚を研ぎ澄ませるとピスタチオの味が判る。プードルにせず粗挽きであるとより味がわかりやすく食感のアクセントにもなるだろう。基本はクロワッサンの食感と香りを楽しむ作品であると考えた。

  

バゲットとクロワッサンは、ツウの集まる世田谷のパン屋において生命線である。漸くそれを理解した建、キャリアプランも自ずと見えてきた。
「先ずはバゲットとクロワッサンを完璧に作れるようにしたい」
「お、いいね。シンプルが一番難しい。だからこそ究め甲斐があるんだよね」
「緑川さんのやり方を真似つつ、そこから自分なりのバゲットとクロワッサンを作る。そしてそれらを使ったヴァリエーション豊かなサンドを出す。他のパンもやるとは思うけど、主力はこの2系統かな」
「潔いね。私そういうパン屋さん大好き!」
「良いもの作れば自然と人は訪れる。鬼コーチでも食らいついてやるさ」

  

フランスのローヌ=アルプ地方にあるブレスという都市の郷土菓子・ガレットブレッサンヌ。発酵クリームを載せたブリオッシュにグラニュー糖を塗して。シンプルなパンではあるが、ジャリジャリしたグラニュー糖と柔らかいブリオッシュ生地が、甘さの面でも食感の面でもよく親和する。

  

「パン屋さんで働いてること、親御さんには伝えたの?」
「あそうだ、まだ伝えてないや」
「まあ大丈夫じゃない?実は私も、長い間黙っていたからさ」
「それまた何で?」
「やっぱりちょっと言えなくて」
「でも打ち明けたんでしょ?」
「打ち明けたよ。そしたら『なんだ、誰も止めはしないよ。遠慮しないで早く言ってくれれば良かったのに』って言われてさ、隠す必要なんて無かったんだ、って気楽になった」
「じゃあ俺も言ってみるか」
「言ってみよう。絶対喜んでくれるよ!」

  

最後に食べるパンはミューズリーブロート。大きなパンの中には杏や無花果、アーモンド、ヘーゼルナッツが所狭しと、そして外側も大麦、オーツ、ヒマワリ、亜麻仁を塗し具沢山となっている。生地にはシナモンが練り込まれていると思われる。ヘーゼルナッツの香りが特に抜群であり、無花果の食感や杏の酸味、雑穀の香ばしさもクセになる。
ちなみに日を置いて食べると(具材が馴染んで?)より美味しくなる、と謳われているが、生地が水分を吸ってしまうのでオーブンにかけてから食べることを推奨する。ウイスキーの摘みにも合いそうである。

  

「ありがとう美澪さん。お陰で進むべき道が見えたよ」
「見えたらもう怖いものなし!緑川さんも怖くなくなる怖くなくなる怖くなくなる〜」
「催眠術かよ」
「アハハ」
「はあ、でもどっと疲れが」
「休んでいけば?」
「ここで?いいの?」

  

美澪の言葉に甘えて、建は応接間の椅子で小一時間居眠りをした。気づいたら美澪がブランケットをかけてくれていて、なんて優しい女性なんだろうと再確認した。いずれは美澪とくっついて店も一緒にやりたいな、とも考えていたが、世田谷の令嬢を滋賀の田舎町に誘う勇気は無いため胸の内にしまっておく。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です