連続百名店小説『世田谷パンストーリー』épisode 2(ミカヅキ堂/三軒茶屋)

パン屋を営む実家に嫌気がさして上京し、駒沢大学に通う大学2年生の八木建。ある日、とあるパン屋の行列に並び突然の雨に打たれる。そこへ傘を貸してくれた1人の女性。すぐ止んで返したためやり取りは僅かであったが、建は彼女のことが気になって仕方なかった。

  

あれこれ考えてはみたが、あの女性に再会する最も確かな作戦は、もう一回パリの空の下を訪れることである。しかし何せ高級店であるため頻繁に行くことはできない。2,3回並んでみたがあの女性に遭遇することはできない。それなら他の店も訪ねてみよう。パリの空の下に来るくらいだからハイソで芯のあるパン屋を巡っているに違いない。ネットで調べてみると、世田谷区には食べログが発表する「パン百名店」(2022年最新版)に選出されたパン屋が12軒も存在していて(パリの空の下もその1つである)、建の行動圏内にある田園都市線沿線にも名店が点在している。

  

この日授業終わりにふと訪れたのは、三軒茶屋の西友裏の道を北進したところにある「ミカヅキ堂」という店である。「明るいパン屋」と店名の上で謳ってはいるが、中に入ってみると店員の対応がしょっぱい。こういうギャップが、世田谷区の店では偶にある。おまけに時刻は15時を回っており、一部のパンは完売していた。手提げ袋も有料である。

  

以上の事情から、パンのクオリティに期待していない建であったが、なんだかんだ夢中になってパンを選んでいた。残り1つとなっていたクロワッサンダマンドにトングを伸ばした時、反対側からもう1本トングが現れる。図書館で本を取る時のベタシチュエーションである。
「あ、ごめんなさい」
「すみませんすみません、俺の方が遅かったです、どうぞ……あれ⁈」
「あ!この前傘を貸した方ですね!」
「覚えて下さってる……」

  

建は何を言えば良いかわからなくなった。再会する気はあったしそれに備えて受け答えの想定もしてはいたが、まさか本当に再会できるとは思っていなかった。準備していたことなどすぐさま引き出せる状態には無かった。
「この辺にお住まいですか?」
「あ……はい。上京して大学に」
「そうなんですね。じゃあお譲りします」
「いえいえ、俺の方が後に手伸ばしたのに」
「このクロワッサン、食べてほしいです。とっても美味しいので!」
「いや、申し訳ないですよ。じゃあ半分こします?」

  

建は馬鹿げたことを言ってしまった。まだ2回しか会っていない赤の他人とパンを分け合う提案なんて、側から見れば笑止千万である。
「半分こ……しましょう!良かったら私の家来ます?」
「え、良いんですか⁈」
「ええ。家の広さには自信がありますので」

  

三軒茶屋から女性の家がある成城にタクシーで移動。いかにも世田谷らしい豪邸を目の当たりにし、その中に入ることを想像すると腰が引ける。
「あれ、緊張してます?」
「は、はい。こんな良いお家、入ったことないので」
「まあ所謂お嬢様の部類に入るのかな、と思います。自分で言うのも変ですが」

  

応接間に通され、執事と思しき給仕が紅茶をサーヴする。初めての経験であり、やたらとソワソワしながら紅茶が注がれる様を眺める。

  

例のクロワッサンダマンドも半分に切られ提供された。焦げた部分とクレームダマンドの甘々な部分のギャップがクセになる。フランボワーズが程よい甘酸っぱさで良いアクセントとなっている。

  

「改めてご挨拶させていただきます。木村美澪です」
「八木建です」
「大学生さん?」
「はい。駒沢大学です」
「私も!とっくに卒業したけどね」
「卒業生とは奇遇ですね。俺今文学部にいるんですけど」
「私も文学部よ」
「これまた奇遇ですね!もしかして廣瀬先生の授業とってました?」
「とってた。永井荷風の小説読んでレポート出すだけで単位貰える講義だよね」
「楽ちんでしたね。読書感想文は苦にならないタイプだったので」
「さすが文学部ね。私本当は……やっぱいいや」

  

何か言いかけた美澪であったが、それを飲み込んでミルクフランスを取り出した。建は建でチャイ味のミルクフランスを購入しており、これも半分ずつ食べようという流れになった。普通のミルクフランスは思ったより乳感が弱く脂肪分が目立つ(ミルクフランスとは恐らくそういうものである)が、チャイ味は茶葉が入ることにより香りが入りコクが生まれる。また、どちらのミルクフランスも生地とクリームの相性が良くて芳しい。

  

「美澪さん、お仕事何されているんですか?」
「何してると思う?」
「まさかのクイズ形式だ。えーっと、身長高くてスラっとしてるから、どこかの社長さんの秘書!」
「残念。でもよく言われる」
美澪は思ったより無邪気な人であった。外見から抱いた印象とのギャップに最初はたじろいでいた建だが、じきに心がほぐれ彼女感を覚える。

  

「私ね、パン屋さんになりたいの」
「パン屋?え、ということはどこかでお勉強なされてる?」
「ええ。専門学校に通ってるわ」
「ヨーロッパ流とか日本人向けとか、どんなパン屋にしたいんですか?」
「やっぱり本場流やりたいかな。世田谷育ちだとそういうもの多いから」
「確かにそうですよね。やっぱ本格派って感心しますもん、日本人に迎合しないから」
「でも少しは迎合しないとダメよ?皆が皆本場の味を得意な訳じゃないから」
「まあそうですよね」
「本場物が日本流と手を組むのも面白いでしょ。このあんバターとか」

  

ここのあんバターは、あんこに鯛焼きの名店ひいらぎのものを使用。不思議とフローラルな甘さである。カルピスバターは、カルピスらしさは感じないがさっぱりと。それらを欧州流のハードな生地で受け止める。異文化交流の代表例と言えよう。

  

「はあ、上京してから食べるパンはなんて華やいでいるんだ」
「地元にはこういうパン無いんだ」
「無いというか、俺の実家パン屋なんで」
「パン屋なの?いいじゃん!」
「良くないっすよ。古臭いパンばっかだし、ろくに修業もしてないからモソモソして美味しくない。人情でやってる、って言うけど買う人少ないし、売れ残るから夜も朝も食わされて堪ったもんじゃ…」

  

途端に雰囲気が重くなったのを察知した建。
「親御さんの信念は、大事にしてあげた方が良いと思うんだけどね……」
「そ、そうですよね。変なこと言ってますよね俺」
「あ、課題のパン作らなきゃいけないんだった」
「それは作った方が良い。お暇しますね。ありがとうございました」
「寒くなってきたから、風邪ひかないようにね」

  

棒読みの口調で社交辞令を述べた美澪。口にこそ出さないが、内心怒りが湧いていて、建とは仲良くなれないと判断したようである。

  

ワンルームに帰った建は、己の言動を後悔しながら夜の月を眺めていた。手元には三日月ブリオッシュ。これが皮肉なことに絶品である。ブリオッシュとは言いつつロールパンのように柔らかく歯切れの良い生地。そこに柑橘のピールが鏤められているのだが、賽の目状で厚みを感じられるため、食感の面でも味の面でも作品に彩りを与える。

  

あんな優しい人の前で愚痴なんて吐くんじゃなかった。それも親の愚痴なんて。嫌われて当然だよな。でも美澪さん、すごく魅力的だったな。会うの2回目なのにあんなフレンドリーでコミュ力高くて時にあどけない。美人なだけじゃなくて気立ても良い。友達になりたかったなあ。あわよくばそれ以上の関係に。愚痴さえ吐かなければ連絡先交換だってできた。つくづく勿体無いことをした。

  

女性の名前こそ知ることができたが、己の不用意な発言のせいで一期一会の関係性に終わってしまった。この一件がトラウマとなり、建は再びパンと距離を置くことになった。

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