連続百名店小説『世田谷パンストーリー』épisode 1(パリの空の下/若林)

今日も俺はパンを食べてしまう。パンが嫌で東京に逃げて来たのに、気がつけば足が向かう先はパン屋である。

  

滋賀から上京してきた大学生の八木建。特に何かになりたいとかいう願望は無い。ただ大学を留年せず出て、普通の社会人として暮らし家庭を持てば良い、という漠然とした計画。ただそこに要らぬものがひとつあって、それこそがパンなのであった。

  

建の実家は「近江パン」という小さな街のパン屋を営んでいる。地元民からは愛されるが、古臭い店で外からの客は皆無であり、毎日そこそこの量パンが売れ残る。それを夕食および翌日の朝食、高校時代は学校での昼食としても処理させられていたからパンに嫌気がさしていた。長男坊として店の後継ぎを期待されているが、もうパンなんて食べたくない、見たくもない、と内心思っていた。勿論そんなことなど口に出す勇気は無く、もしものために4年制の大学でも出ておきたい、東京暮らしもしたい、と何とか親を説得し、結果駒沢大学に通うこととなった。

  

世田谷区内に家を借り、サークルの先輩からお下がりの自転車を手に入れると、246沿いにある天下一品のラーメンやロイホのカレーなど、今まで縁の無かった美味いものを心から楽しんでいた。
しかし実家を離れて1年半が経とうとしたある日、途端にパンが恋しくなってしまった。いや、今更パンに心を奪われるつもりは無い。でも足が勝手にパン屋に向かったり、手が勝手にコンビニに置かれたパンに伸びて止められない。パン屋の息子としての宿命からは逃れられないようであった。

  

それでも世田谷区にあるパン屋は面白い。近江パンとは違って洗練された、心がワクワクするパンを出す店が数多ある。大学の友人からも色々な店の情報を提供される。
「ねえねえ、この前不思議なパン屋見つけたんだ」
「不思議なパン屋?」
「その店は火・水・木、夜の6時2分前後に開く店なんだ」
「すごい中途半端だね」
「しかもガチ勢が開店の随分前から座り込んでいてパンを大量買い、後ろの人には殆ど残らないとか」
「難しい店だな。行ったの?」
「行ってない。自分は行こうとは思わないね。代わりに行ってもらえる?」
「なんで俺が?」
「お前の親、パン屋なんだろ?」
「しがないパン屋だけどな」
「パン屋の息子として評論を聴かせてほしい。1000円あげるから、お願い!」
「……仕方ないな。今度の火曜、行ってくるよ」

  

9月末の火曜日、暑さも治り秋の風が吹く頃。並ぶのが苦でない天候である上、店の公式Xで「今日来るのがおすすめ!」と喧伝されていたため争奪戦になることを恐れる一方、遅い時間でもクロワッサンが余っている様子が投稿されているし、口コミによれば17時半近くに並び始めても買うパンの選択肢に余裕がある傾向にあるとされていたため、動き出しはゆっくりめにした。

  

17:25に店の前に到着。8番目であった。想定より若干多めの並びではあるが悪くないとみる。先頭にいる人は、もっとがめついおじさんおばさんをイメージしていたが、実際は若めで大人しそうな人達であった。世田谷の気品に包まれ、開店までの時間を平和に過ごしていた。

  

しかし17:50頃、手の甲に水の感触を覚える。雨雲レーダーを確認すると、予報に無い雨が近づいていることが判明した。しかもまあまあ強い勢力である。

  

雲が逸れることを期待するも叶わず、本降りの雨がやってきてしまった。庇の下に立つ先頭の3名を除き、列に並んでいた人の大半は長傘または折り畳み傘を開く。建だけが傘を持ち合わせておらず雨に直で打たれる。

  

「あの、良かったら使います私の傘?」
庇の下にいた1人の女性が、建に傘を差し出した。
「え、いいんですか?」
「ええ。私が買い終わる頃には軒下まで進んでいらっしゃるでしょう。その際に返していただければ」
「あ、そっか。ありがとうございます!」

  

雨のせいもあってかこの日は18時丁度の開店となった。噂されていた先頭集団の爆買いはそれほどでもないが、5人ほど退店した頃には売り切れそうな商品も散見される。

  

「あ、傘ありがとうございました」
「いえいえ。雨も上がって良かったですね」
「助かりました」
建は女性のことが気になっていた。美人で優しく上品な立ち振る舞い。何か言おうとしたが言葉が出てこなくて、変な間を生んでしまった。

  

「あ、ありがとうございました!」
「風邪ひかないでくださいね!」
女性は車に乗り込んで去ってしまった。気の利いた返しができない自分を責めたいところであったが、それより先に買うパンを決めることに集中する。

  

順番が回り入店。クロワッサンやクイニーアマンなどは多数残っている。冷蔵ケース下段にあるサンドウィッチ系も充実したラインナップで残っていて、其々興味を唆ってくるがその日のうちに食べきるのが安全と考え2つで我慢した。これでも多いくらいである。そして中段のタルトが2種類1切れずつ残っていて、後の人に申し訳ない気持ちになるが両方掻っ攫ってしまった。明日の朝食べる分までたっぷり購入。無料の袋に商品を入れてもらい、意気揚々と店を後にする。

  

小さなワンルームに似つかわしくない高級パン・タルトの数々。冷静に考えると、安くても500円、高いものだと1つ1400円するパン・タルトは高級である。親からの仕送りを貰い、年収の壁を超えるギリギリまでバイトを詰め込んでいるとはいえ、欲張って沢山買うのは無鉄砲である。

  

ただ値段のぶんヴォリュームも満点である。例えばチキンサンドは750円であるが、厚みもある大きな肉塊が3枚挟まれている。店に置いてあった段ボールから察するに、青森のブランド軍鶏「シャモロック」を使用。カレー味に仕上げてあり間違いなく美味い。一方でマヨネーズソースが余分に重くしている印象を受ける。

  

このソースが真価を発揮するのが牛サーロインのサンドウィッチ。まず肉は冷えても硬くなりすぎず、柔らかいパンと共に淀みなく噛みきれる。そしてサーロインらしい脂が確と感じられる。そこへマヨネーズが効くことにより、脂のくどさを抑えながら肉の味わいを引き立てる。

  

肉たっぷりのサンドを2つも平らげそこそこ腹一杯ではあったが、その日のうちに食べておきたいと考えクロワッサン(ブール)を温める。実家のクロワッサンは嫌がらせのようにしなしなであったが、最近になって漸くオーブンでトーストして食べることを学び美味しさを理解していた。1個600円という高価なクロワッサンではあるが、バターがたっぷり染みており、サクサクの生地からジューシーなほどに溢れ出す。

  

クロワッサンを貪りながら、建は未だ傘を貸してくれた女性のことを考える。上京して大学に通い出してから、都会的な美人に目を奪われる機会は多かった。だが今日出会った彼女はその誰よりも清楚であり、都会人に欠けがちな優しさや親しみやすさも滲み出ていた。派手ではないが強烈な印象。建は運命を感じていた。次出会うことがあれば、今度こそ気の利いたことを言って仲良くなりたい。しかし95万の人口を抱える世田谷区、その中で偶然出くわす確率は低い。再会など夢のまた夢であると思われた。

  

デザートとしてタルトを食べる。ケーキ屋の生菓子のタルトとは違って生地の密度を高く、かつしっとりと仕上げている。巨峰タルトは皮を剥いで果実の原型を残す目新しいスタイル。生地が果汁を確と受け止める。南仏産無花果のタルトは、先ず同居する桃の果実味が大層フローラルでありタルトとも一体化。主役の無花果は国産のものと違って兎に角肉厚であり食べ応えがある。どちらも1350円、1400円とかする高級品であるが、果実の新鮮さを保ちつつ味を凝縮する技術が素晴らしく、それに見合った貫禄と華を持つタルトであった。

  

翌朝、建は遅く起きて授業をブッチした。どうせ間に合わないからと、残しておいたクイニーアマンをトーストし、齧りながら登校した。
「おいお前、何優雅に現れてんだよ」
「寝坊したから。出席だけ書きに来た」
「まったく。何食ってんだよ、もう昼飯の時間だぞ」
「お前に頼まれて行ったパン屋、素晴らしい店だよ。このクイニーアマン、キャラメルのような焦げ感があって面白い。レベル高いぞこのパン屋」
「行ってくれたのか。ありがとう」
「もう親の作るパンなんて食えない。パン屋の息子名乗るのが恥ずかしくなったぜ」
「あんま親を貶すもんじゃないぞ」
「全然違うんだもん。あのパン屋は良いぞ、傘貸してくれる良い女性とも出会えたし」
「そこは本質じゃないだろ。……ん待って?その傘の柄は水玉だった?」
「……確かに水玉だ。黄色だったと思う」
「可能性高いな。その人そんな傘持ってセタガヤウォーカーの表紙飾ってたぞ」
「何それ。知らないけど凄そう」
「凄そう、じゃなくて凄い。びっくりするほど美人だぜ」
「確かに美人だった。もっと話しておけば良かった」
「勿体ねぇ〜!絶対仲良くなった方が良かったじゃん」
「後悔なら昨晩からしてるっちゅうの」
「世田谷区内のパン屋を頻りに食べ歩いてるらしい。巡ってたらいつか会えるんじゃね?」
「まさかそんな」

  

と口では言いつつ、友達の言葉を本気で受け取る建。その日以来毎日のように世田谷区内のパン屋を訪れ、朝昼晩パンだけ食べる生活に逆戻りした。

  

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