住宅街の中にぽつんとある撮影スタジオ。鰻の寝床とも言える建物内に学校のセットが組まれていて、無名の監督による、無名の女優が主演する学園映画の撮影が行われていた。
そこにエキストラの学生として参加していた宮本建。かねてから俳優を夢見ており、大学では勉強そっちのけで演劇を究めていた。しかし大手俳優事務所や有名劇団のオーディションには悉く落選し、やっと拾ってもらえたエキストラ俳優専門事務所で細々と案件に臨む日々。ギャラだけで食っていくことはできず、アルバイトを掛け持ちしながらカツカツの生活を送っている。自分には演技の才能がある、寧ろ演技しかできない、それなのに何故俺は役者として大成しないのか。建は保健室様の控室で不貞腐れていた。
撮影は難航していた。狭いスタジオで、安い機材を用いての撮影であり、少しでも雑音が入れば撮り直しとなる。監督は人が良すぎるせいか演者・スタッフを引っ張る力を持ち合わせておらず、たった1シーンの撮影に10テイク以上かかる始末。建は腸が煮え繰り返っていた。
「ああ疲れる!狭いところぎゅうぎゅうに詰められて何回走らせるんだよ!」
「そういうこと言うなよ」エキストラの1人が建に楯突く。
「お前だって嫌だろ」
「思ってても口には出さないね。そうやってみんなの士気を下げるようなことするの許せない」
「言わなきゃやってらんねえよ。こんな素人みたいな監督のさ…」
「最低だなお前。なら帰れ、冷やかしが!」
「ああ帰りますとも!」
出口方面へ廊下を歩いていた時、ふと隣の控室を覗く。そこには眩い笑顔で他のエキストラと談笑する女性がいた。彼女の名前は山田ハルカ。他のエキストラが学生役を演じる中、独り教師役を任されていた。健気で可愛らしいハルカに建は釘付けとなり、気づけば帰ろうとしていたことを忘れていた。暫くして元いた控室に戻り、口論になった相手に謝罪して撮影に復帰した。
「すごい気の変わりようでしたけど、どうしたんですか?」
「教師役のエキストラの人、あまりにも可愛くて」
「え?それだけで?」
「感じたんだよな、あの人は清らかな人だって。俺も見ている内に心が落ち着いちゃってさ」
「その見立ては合ってますね。あの人はハルカちゃんって言って、『エキストラの女神』として業界では有名なんです」
「へぇ。やっぱ惹かれる物持ってんだ」
「でも世間的には全くの無名。何でなんでしょうね」
「そういう世界なんだよ芸能界は。俺だって大学で演劇に打ち込んですごいチヤホヤされていたのに、いざ外に出てみたらこのザマ」
「口が悪すぎです。ハルカちゃん見て改心したんじゃなかったんですか?」
「でもそれが現実なんだよ。偏った見方しかできない少数のお偉いさんに気に入られた奴だけが芸能界で輝ける。いくら実力があってもそういう奴には勝てないんだ俺らは」
「は⁈ハルカちゃんに失礼ですよ!」
「何が」
「ハルカちゃんだって人気女優を夢見て日々頑張ってる。真っ直ぐ前を向いてるんだ。それなのに何が『勝てない』だよ!おちょくるのもいい加減にしろ!」
「…」
「だいたい貴方は物の見方が斜めすぎる。そんなんで売れようと思ってんのか?ナメんじゃねぇ!こんな偉そうで中身空っぽな奴の演技なんて誰も見たかねぇよ!やっぱりお前はダメだ、もう二度と演劇の現場に現れないでくれ!」
「どうしたの2人とも?」
「は、ハルカさん…」
「ケンカなんてよくないよッ!」
「そそそそうですよね!変なもん見せてすいませんでした!」
「謝らなくて大丈夫だよ!楽しくやれればそれでいい」
そう言ってハルカは2人の背中をさすった。
「今日はあと1シーンで終わりだからさ、リラックスして演技やろうね!」
「はい!」
数秒前まで諍いをしていたとは思えないほど和やかなムードに包まれ、最後のシーンはテイク2でOKが出てこの日の撮影は終了となった。
「みんなお疲れ様!今日の撮影も楽しかったね!」
本当はしんどい撮影なのに、ハルカの朗らかな一言で全ての疲労が吹き飛んでしまう。捻じ曲がった性格の建ですら、ハルカの持つ包容力の虜になっていた。
「今日はありがとね。ハルカちゃんがいなかったら俺もう終わってたかも」
「それは良かった。これからも一緒にエキストラ頑張ろうね」
「はい!」
手取り3000円を受け取り、築50年風呂無しのアパートに帰る建。エキストラの仕事はそう多くある訳ではなく、アルバイトを掛け持ちして漸く家賃と生活費を払える状態である。賄いつきの店でバイトしているため食に困ることは無いが、将来のことを考えると不安になるくらい収入が少ない。
1週間後、別の作品のエキストラに参加する建。神保町のスタジオで、午後1時からの撮影であった。早く到着した建は、たまの贅沢にと、吉本の劇場近くにある洋食の名店「キッチン南海」の列に並んだ。雨の降る土曜、20人ほどの待ちがあった。そして建の4人前に、ハルカの後ろ姿があった。
車の往来もある路上に膨れる行列。なるべく詰めて並ぶよう女将が囃し立てる。皆傘をさしているから、後ろの人の傘が当たり、ぐわんとした触感が自分の傘の柄に伝わるものである。
「おい、雫!し・ず・く!」ハルカの前にいたカズキという男が、ハルカに向かって怒鳴る。
「私ハルカですけど」
「名前呼んでねぇよ、雫が俺に垂れてんだ!」
「ごめんなさい…」
「周り見ろよ、クソ娘が」
「ちょっと待てよおっさん」建は黙っていられなかった。
「何だデブ」
「ハルカに何てこと言うんだ!」
「知り合いかよ」
「会うのは2回目だ。だがな、彼女は良い人なんだ!」
「知ったこっちゃねぇ。俺にとってはただのト○○なんだよ」
「ほぅ、君もなかなか口が悪いですね。俺も大概だけどな、彼女のいる空間でだけは優しくなれる。俺の大事な女だ、部外者は口出ししないでもらえるかな」
「…ああ腹立つ!勝手にしろ!」
居た堪れなくなったカズキはその場を去っていった。
「ありがとう!」建に近寄るハルカ。
「おいおい列を離れるな」
「注文は済んでるから大丈夫!」
「だからって抜けたら混乱するだろ。順番通り料理作ってるんだよ店員は」
「でもお礼は言わないと。私のこと守ってくれてありがとう」
「人として当たり前のことをしたまでだ」
「私すぐ怒られちゃうんです。まああまり気にはしないんですけどね」
「少しは気にした方が…あ、女将さん出てきたよ。早く戻って」
「そこの女性、列離れないで!」
「ごめんなさい…」
ハルカが入店したタイミングで小さな軒下まで到達した建。傘を畳む際も後ろの客に雨水を吹っ掛けないよう注意である。
入店してしまえば提供までは秒である。20人の並びにも関わらず40分ほどで入店と、回転もどちらかと言えば早い方である。隣の人との距離が近く、タッパのある建には窮屈であった。
建が注文したのはカツカレー。洋食屋の矜恃とも言えるコクがありつつも、多種多様のスパイスを感じパンチのあるルー。なのだが、カツと一緒に食べると途端にルーの印象が弱まるし、キャベツと合わさると水分でだいぶ薄まってしまう。カツの向こう側から先割れスプーン1本で掬うのは至難の業だが、キャベツは胡麻ドレッシングで先に片付けてしまおう。ドレッシングは胡麻のコクを最初に感じ、すぐさまスッと溶けていく。
カツは衣がこれでもかと言うほどサクッと揚がっており、中の肉の甘みを引き立てる。量もかなり多く、これでCocco壱の手仕込みカツカレーより安い850円とは恐れ入る。何だかんだ言って美味いことに変わりは無いし、ライスカレーまんてんと並び、神保町の苦学生と夢追い人の味方である。
シェフは威厳のある雰囲気を持っているが、退店時には柔和に送り出してくれる。女将だけが相変わらず強気に思えるが、それはそれで歴史ある店の「らしさ」であり受容すべきものであろう。
現場に入るとハルカが先に控室にいた。
「あ、建くんだ。さっきは私を助けてくれてありがとう」
「ああ。良い店だねキッチン南海。行きつけなん?」
「まあね。安くてお腹いっぱいになれるから。私はいつもトッピング無しのカレーなんだけどね。建くんはカツカレーだったね」
「良くなかったな。ごめん…」
「なんで謝るの?自分の好きなもの食べて、何も悪いことないじゃん」
「そうだね」
「はいはい切り替え切り替え!今日も頑張ろうね!」
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