トラベルドクター・落合建。末期がんなどで余命宣告を受けた人々へ、人生最後の旅行を企画しサポートするのが彼の使命である。ある日プライベートで足利を旅していた建は偶然、おばあちゃん(リミ)に最後の旅をプレゼントしたいと言う江森一家と出会った。
*この物語はフィクションです。実在する人物・団体とは関係ありません。実際のバリアフリー対応については店舗にお問い合わせください。
霧降高原方面へ行く道に和牛ステーキの名店はある。近くには足立区の林間学校があり、足立区で生まれ育った建は懐かしさを覚えた。
「ここで肝試しやりました。女の子とペアだったんですけど嫌がられた記憶がありまして」
「それは災難でしたね。建さん優しくていい人なのに」
「いやいや、明里さんもお母様もお婆さまも、僕より全然お優しい方だと思います」
緑が生い茂る洋館風の建物に、やや控えめな江戸文字の案内看板。店先に立った一行を丁重に出迎える男性。この人こそまさしく甚六の息子・宏之である。
「お話は伺っています。和牛を楽しみながら思い出話しましょう」
上のクラスの肉は脂が多くもたれるだろうと判断したため(実際どうかは知らない)、ランチの一番安い「Bステーキ」(4400円)を注文。そしておばあちゃんは遂に、大好きなビールを注文した。
「お酒飲めるのも最後じゃろうね。最後のお酒を二十歳になった明里と一緒に飲める、なんて嬉しいことだろう」
明里の目に涙が溢れる。酒を飲める年頃になったということは、立派な大人になったということでもある。20年以上に渡り母と共に成長を見守ってくれたおばあちゃんに、立派な大人の姿を見せられた。嬉しいことこの上なしである。
ステーキの前にスープ・シャルキュトリー・甘酸っぱいピクルスが登場。スープとシャルキュトリーは標準的なものだが、りんごのピクルスが特に美味しくてステーキと一緒に食べたかった。
「父は日光彫り職人の門を叩き、全ての誘惑を断ち切って修行に没頭していました」
「やはりそうだったんですね」
「8年してようやく独り立ちし店を構えました。そのタイミングで結婚し家庭を築きました。しかしこだわりが強すぎて結婚生活は上手くいかず離婚。私は父の下で暮らすこととなりました」
「あら…」
「その後店の経営まで傾き始め閉店。その時久しぶりに、リミさんのことを思い出したと言います」
「…」
「リミさんに会いたい。でも連絡先は捨ててしまった。そういえばリミさんは小学校の先生だった。日光彫りの体験教室を興して、遠足や宿泊学習の一貫として来てくれたら嬉しい。何とか資金を調達して教室を開きました」
「え、じゃあ建さんの記憶は間違っていなかった?」
「僕が行ったのは2009年ですけど」
「間違いないですね。足立区の小学6年生は毎年受け入れていました」
「懐かしい!あの時のお皿、今も使っていますよ!」
「それ聞くと父さん喜ぶと思います。あ、ステーキ焼き上がったので持ってきますね」
メインのステーキが登場。若々しい色合いに焼かれた和牛はさすが綺麗な脂の入り。決してもたれるようなくどさは無く、程よい硬さである。
おばあちゃん含め全員が完食し、鉄板は一旦下げられた。
「一つ疑問がありまして」建が宏之に問う。「先ほど日光彫りセンターに行ったんですけど、甚六さんという方は後にも先にも在籍してないと言われたんです」
「それは込み入った事情がありまして…」
目論見通り長く団体客に愛されてきた日光彫り体験センターであったが、コロナ禍で団体旅行が自粛されると客はゼロになった。
その時ふと自分の職人人生を振り返る。最大の目標である「リミさんに会うこと」は遂に叶わなかった。そんな私情を抱えたまま何十年も日光彫りを指導していたのか。今まで来てくれたお客さん、そして日光彫り自体に失礼ではないか。そう考えた甚六は、自分がいた形跡を全て消しセンターを去っていったのである。
「何を言ってるんだ…」建は半分怒り半分泣いていた。「僕はあの時確かに日光彫りを楽しんだ。その頃の僕いじめに遭っていたけど、この時ばかりはそんなこと忘れて夢中になっていた。きっかけは何だっていいじゃないか。下心があったって、それは人間の本能。なぜ今までの自分を否定しなければならないんだ…」
「明里もそう思う!会ったことないけど、甚六さんは素敵な職人さんだと思う!」
「そうだよ…そうだよな!」
「悲しいこと言わないで、甚六さん!」
純粋な心の持ち主達へ、シメが登場。先ほど下げられた鉄板にそのまま焼き飯が敷き詰められている。残った肉の脂がそのまま引き継がれたまらなく美味しい。肉のきれはしとか入っているとより止ん事無き料理になることだろう。
職人を辞めた甚六は、素直に足利に出向きリミさんに会おうと考えた。しかしその矢先に病に倒れ、そのままあの世に逝ってしまったという。
「甚六さんも同じこと考えていたんだ…」しみじみとするおばあちゃん。
「やはり心のどこかに通じ合うものがあったのでしょう」
「私も会えないままこの世界を旅立つはずだった。でも今私は甚六さんの名残に出逢えている。それは明里がトラベルドクターという存在を見つけてくれて、建さんが何から何まで手配してくれたおかげだよ。みんな、ありがとうね…」
デザートのアイスを食べたあとは別室に移動し食後の飲み物を楽しむ。ココアという選択肢があるのが面白く、しかもバンホーテンとは全く違う切り口で美味しい。帰り際、そのココアを土産に名残惜しさを炸裂させる。
「今日はありがとうございました。甚六さんのこと色々聞けてとても嬉しかったわ」
「父もきっと喜んでくれていると思います。父の愛した女性が、こんなに立派な娘さんとお孫さんに恵まれた。本当に嬉しいです」
病で諦めていた色々なことが、次々と叶えられていく。甚六と過ごした50年前の幻までもが色をつけて戻ってきた。
「もう一つ忘れていること、ありませんか?」
「忘れていること?」
「日光に来たら、あそこは外せませんよね」
日光東照宮の駐車場にやってきた。
「あれ、東照宮は行けないって…」
「せっかく来たのに行けないなんて、やっぱ悲しいじゃないですか。お婆さまを支えられるように、私も鍛えてきましたから」
三猿も陽明門も御本社も、あの頃と変わらぬ栄華を放っている。
「甚六さん、あなたの大好きな日光の街には、優しい人がたくさんいます。まさか死に際にこんな景色を見られるなんて、私は何て幸せ者なんでしょう」
季節柄、日光の空はスカッと晴天という訳にはいかなかった。それでも、まるで天からの導きのように、神々しい靄が一行を包んでいた。
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