連続百名店小説『キミにはハマが似合ってる。』第9話:新しい明日へ歩き出した(天七/関内)

人気女性アイドルグループ「TO-NA(旧称:綱の手引き坂46)」から、メンバーのアヤ(25)が卒業する。「横浜が似合う女」として話題となったアヤは、TO-NA特別アンバサダーのタテル(26)と卒業記念の横浜デートに出かける。

  

タクシーの中でも2人は手を繋いでいた。
「ねぇアヤ、俺もう手ビッショビショ」
「いいの。タテルくんのぬくもり、感じられるだけ感じておきたい」
「でもまだ卒業セレモニーがあるじゃん」
「タテルくんとこうして絡めるのは今日がラストだと思う。セレモニーの時はメンバーと語り明かすだろうし」
「まあそうなりそうだけど」
「私、後悔したくない。タテルくんは大事な人だから」
「そう言ってもらえるのは非常に嬉しい。今までのしがない人生ではあり得なかった…」
「離れても心では繋がっていたい」
「勿論さ」

  

関内の天ぷら店「天七」に到着。タテルは心が逸ったせいか、レディファーストを忘れ先に入店しようとし自動ドアに肩を強打する。
「もうタテルくん、ドジなんだから」
「ちょっと嫌な予感がしたんだよ…ほら、やっぱそうだ。ここ靴脱いで上がるんだ」
「それがどうしたの?」
「アヤ今日裸足じゃん。嫌かな、と思って」
「別に嫌じゃないよ」
「なら良かった」
「気遣いすぎ。あまり気遣うと疲れちゃうよ」
「そうだな…」

  

カウンター席に横並びで着席。今回は夜のコースのうち、下から2番目のスタンダードコースで予約してある。タテルは先ず緑茶ハイを注文した。
「良かったよアヤが来てくれて。もし会えなかったら代わりに来てくれる人探さなきゃならなかったから」
「心配かけてごめんね」
「気にしない気にしない。気は遣わないんでしょ」

  

先付けはスナップえんどうの擦り流し。濃すぎない青さが夏にぴったりの口当たり。
「アヤ、今日のワンピース素敵だね」
「ありがとう。タテルくんがファッションに興味示すなんて珍しい」
「アヤと一緒だと興味沸くんだ。ファッションのポイントとかあるの?」
「さくらんぼのプリンセス、って言ったところかな。大好きなタテルくんとだから、大好きなさくらんぼをイメージしてやってきた」
「さすがアヤ。惚れ惚れしちゃうね」
「タテルくんがサンダル姿のアヤ見たい、って言ったから裸足で来たんだよ」
「そんな、リクエストしたつもりは…」
「タテルくんの喜ぶツボは押さえておきたい。それだけ私はタテルくんのことを愛してる」
「ちょっと待ってよ、夢みたいなことを…」

  

蕩けるタテルの前に海老の尻尾が現れた。1匹目より2匹目の方が、時間経過のせいか香ばしさが増していた。

  

そして海老の本体。6割くらいの火入れで身の甘み旨味を存分に味わえる。

  

「タテルくん、この前とおんなじ服装じゃん」
「何か問題でも?」
「コーディネートのパターンは無限にあるからさ、一度着たコーデは二度としない方がいいよ」
「そうなんだ…ごめんな、俺ホント服装ワンパターンでさ」
「いやいや、文句とかじゃないからね!」
「せっかくアヤに考えてもらったコーデだからさ、一回きりというのも寂しいかな、なんて思った」
「タテルくん…」
「俺はお洒落を考える頭を持ってない。アヤ渾身の俺へのコーデ、置き土産に頼む」
「任せて。タテルくんを絶対にイケイケ港区男子にしてあげるから」
「どっちかというと中央区がいいんだけどね」

  

水茄子。塩と天つゆそれぞれで味わう。程良い水分量と身の詰まり。

  

間も無く桜海老サラダが登場。これは桜海老の味が特に強い訳でも無く印象に残らない。
「モデルは続けるの?『しし』と『butGIRLS』の専属モデルは卒業?」
「そうなるね。グループ卒業したら専属モデル卒業は既定路線だから」
「出版社側も手放すの惜しいと思うんだけど…」
「そういう事情もあってメイク修行の道を選んだ。今度は自分だけの力でモデルさんになれるよう頑張るね」
「かっこいい。自慢のアネキだ」

  

稚鮎。頭に苦味。3種の塩全て使ってみたが、小さな鮎は天ぷらだと味がわかりにくいかもしれない。天ぷらにするなら大きな鮎を使い、カレー塩をつけて食べると最高だろう。

  

茗荷。横浜で作られる醤油をかけて食べる。茗荷のクセが油分によって和らげられ、大きめのポーションでも食べやすくなっている。大人の食材でも食べやすくなる魔法が、天ぷらにはあるようだ。
「苦いのとかあまり得意じゃなかったけどこれすごく美味しい。さすが高級天ぷら!」
「いいだろアヤ。素材に向き合えて楽しいんだよ天ぷらは」
「タテルくんいろんなメンバーと天ぷら食べに行ったじゃん。もう羨ましくてさ、今回リクエストしたんだ」
「アヤって結構ジェラ抱くタイプなんだね」
「そうなのかな…」

  

鱧。片方は酢橘+塩、もう片方は醤油で食べてみた。醤油で食べた方がわかりやすい味になるが、鱧らしい味は酢橘を絞ってあげた方が出やすい。
「悪いことじゃないって。ジェラなんてみんな抱くものだよ。俺だってクイズ番組で東大出の人が粗相するのを観て、同じ東大生なら何故俺を出さないんだってテレビの前でキレるからね」
「それちょっとカッコ悪い」
「否定はできない。自分でもそう思ってるから。でもジェラを抱いてこそ人間だと思うんだ」
「へぇ〜、いいこと言うじゃんタテルくん」
「大事なのはそのジェラを解消するために行動を起こせるか、だと思う。アヤはそれを諦めている感じが今まではあった」

  

ズッキーニ。カレーの味がズッキーニの身に入り込み、塩が締めてくれる。
「だから自分から天ぷら食べたいって言ってくれて嬉しかった。そして話を聞いたら韓国へメイク修行する、と。アヤの強い意志を感じられて良かった。予約キャンセルしなくて良かった」

  

醤油およびカレー塩で戴く2匹目の海老は、アヤにとっては滲んで見えた。
「タテルくん…私すごく悔しかった。なかなか前列で踊らせてもらえなかったし、握手券の売り上げも伸びなかった」
「俺ももどかしかったぜ」
「頑張り方とかよくわからなくてさ。卒業後の進路が見出せなくて、未来を想像するのが怖かった」
「アヤ…」

  

口直しにじゅんさいの酢の物。特筆することは無い。

  

埼玉のフルーティな地酒を入れて、アヤの本音が加速する。
「TO-NAになってパフォーマンス強化に乗り出すことになったとき、変化についていけるか不安だった。結論から言えばついていけなかった」
「俺も今までのわちゃわちゃ感を犠牲にしてまで鬼レッスンを課すべきか悩んだ。結果アヤを葛藤させることになってすまないと思ってる」
「謝らないで。それが逆に、恐れてた未来へ踏み出す勇気を与えてくれた」

  

淡路島の小玉ねぎは甘さが際立つ個体ではないが、カレー塩がよく合う。
「熱気に満ちたレッスンを受けているうちに、自分自身が心から夢中になれることに打ち込む面白さに気づいた。部屋に戻って自分と向き合ったとき、私にとってそれは『美容』であることを実感した」
「そうだったのか…」
「未来のTO-NAに私がいない、とわかったとき、私はここで踏み出さないといけないんだ、と感じた。そしてメイクアップアーティストを目指すという具体的な夢を描いたところで、卒業の決心をした。TO-NA再生に携わり、それを成功させられたから、もう未練は無い」
「満足して卒業してくれるのは本当に嬉しい。不完全燃焼のまま去られるのはすごく悔しいからね」
「タテルくんにはすごく感謝してる。ありがとう、TO-NAを守ってくれて」

  

雲丹大葉巻き。雲丹のコクを感じつつ臭みを抑えるのに、大葉は一役買っている。

  

コースは食事とデザートを残すのみとなった。アヤの門出祝いとして、少し物足りなさを覚えていたタテル。天ぷらでは定番の穴子がコースに入っていなかったからである。そこで単品の天ぷらを数点追加することにした。

  

せっかくだから豪華なやつも、ということでたらばいくらから。これ1つで3000円である。たらば蟹の旨味を、いくらのコクに纏わせる贅沢な1品で、互いの味が喧嘩しておらずほっとする。

  

よく飲む2人は而今を追加した。
「韓国に行くと日本酒も飲めなくなるのかな。せっかくタテルくんが教えてくれて好きになったのに」
「どうなんだろう。日本のものってあっちではそんなに広まっていない気もするけど」
「もし飲みたくなったら、タテルくん送ってくれる?」
「いいけど…どうやって?家の住所を聞くのはさすがに…」
「タテルくんには教えてあげる。私たちはズッ友だよ」
「ズッ友か。そりゃ嬉しいぜ」

  

明太蓮根(800円)。発色の良い明太子は時間経過で味が強くなる。立派な酒のつまみである。
「でも暫くは連絡しない。それくらいの覚悟がないとやっていけないと思うから」
「それはそうだね。いきなり連絡されても何か違う気がする」
「離れ離れの時間も大事だよね」
「それに比べて京子なんかさ、綱の手引き坂卒業した次の日に後輩をかき氷に誘ってやんの」
「ハハハ。それはそれで京子らしいね」
「まあどうしても寂しくなったら連絡してね。俺でもいいしメンバーでもいいから」

  

そして本題の穴子(2500円)。因みにこれは一番安いコースではデフォルトで組み込まれている。
この店伝統の食べ方として、1切れだけ大根おろし・レモン汁・抹茶塩を載せてくれる。ふっくらした部分にはその味付けが馴染むが、タテルにとっては要素過多だったようで、カレー塩やノーマル、何ならつけない方が良い、とのことである。

  

食事と共に戴くかき揚げは、タテルがいつものように天茶を選択しアヤもそれに乗る。こちらの天茶は煎茶ではなく焙じ茶を使用しており、油分がスッキリと磨かれするすると胃に落ちていく。

  

デザートは向かいの洋間に移動して食べることになった。この後移動があったのは1人客の男性のみで、扱いの差に関してはよくわからないのだが、うかい亭のデザート移動を経験したことのある2人は何の疑問も抱かず移動した。

  

デザートの内容は洋梨ジェラートと生姜の効いたライスプリン。ジェラートは並の味わい(美味しいけど)だが、ライスプリンの味わいが濃厚で満足した。

  

日本酒や天ぷらの追加注文が多かったため会計は23000円強まで跳ね上がった。支払いは各々がする。
「2万超える食事なんて人生で3回目。うち2回はタテルくんと一緒だからね」
「本来なら男が全額払うべきだよね」
「その考えは古いよ」
「俺のこと、ケチだと思ってたりする?」
「そんなことないよ。自分の分は自分で払う、これは人生を通して守りたい。タテルくんから学んだ、最も大事なこと」
「アヤは立派な人間だ。変わらずにいてほしい」

  

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